放蕩息子の『一時』帰還
「…法安さんのお葬式以来デスネ。」
そう言ってリーゼが寂しそうに小さく笑った。
「…うん、そうだね。しばらく帰らないうちに…ここも大きくなっちゃったなぁ。人も多くてまるで知らない場所みたいだよ。」
勝はその果無げなリーゼの表情に、所在なく視線を彷徨わせて返事をする。
彼らは並び立つテントの端にある工房の前の空きスペースで話をしていた。
自分に顔を向けない勝を見つめていたリーゼも、
小さく諦めたように息を吐いて彼から視線を外す。
「三年近く経ってますカラ。…勝さんがここを出テ。」
「そうだね…。」
電話や記憶の中じゃない、本物の勝の声。
夢にまで見た勝の姿。
しかし遠い世界を旅して帰ってきた勝は…
まったく自分を見ようとしない。
その彼の前に立ち、リーゼの心臓は張り裂けそうだった。
確かに彼は「待っててくれ」とは言わなかった。
自分が勝手に待っていたのだ。
でも…手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、
心の距離が縮まらない。
勝の旅立ちを見送った時は、
もっと彼の心に近付いたような気がしていたのに。
こうして勝を目の前にして、リーゼは今までよりもっともっと、彼の存在を遠く感じていた。
「元気そうで安心しました。」
精一杯の虚勢を張って笑顔を作り、勝をいたわる言葉をかける。
本当に言いたいのはそんな言葉じゃないのに。
「うん。リーゼさんも元気だった?」
ようやく勝の顔がリーゼの方を向いた。
昔と変わらずやさしげな表情を湛える瞳に彼女は少し安心する。
「ええ。」
「良かった。…でもなんかリーゼさん、きれいになっちゃったねぇ。まともに顔が見れなくて困っちゃったよ。」
勝は頭に手をやって照れたようにニコッと笑う。
「今までにいくつもサーカスを回ったけど、リーゼさんみたいにキレイな人なかなかいないよ。それに、パフォーマンスだってトップクラスだし。」
そこで言葉を切ると、彼は少しイタズラっぽい顔で笑った。
「実はね、アメリカでグレートロングサーカスにも行ってみたんだ。猛獣使いのショーもあったんだけど…リーゼさんを仲町サーカスに引き抜いたのが申し訳な
いような気持ちになっちゃった。あそこのショーと比べると、リーゼさんのショーがすごくハイクラスなんだって分かって。」
言葉の最後に含羞んだような、寂しいような、そんな表情で勝はリーゼを見る。
「そんな、私なんてたいした事ないデス…。」
「謙遜しないでよ。リーゼさんとドラムはすごいよ?でも僕はやっぱり…まだまだだなぁ。」
自分の前に立って少し遠くに目をやった勝をリーゼは見つめた。
ここを出た時より背が伸びたようだ。体つきもしっかりして少年っぽさが抜けつつある。
身長は日本人男性としても少し小さい方ではあるが、彼は着実に大人の男に近付きつつあった。
………私を置いて?
勝はまたしばらくしたら旅の空に戻ると言う。
リーゼは勝が旅立つ前に彼に告げた、「ずっと待ってる」という言葉を胸の中で繰り返す。
彼の横顔を見つめたまま、彼女は自分がその言葉をこの先守れるのかどうか自信を失っていた。
「…莫迦ねマサル、他にもっと言う事あるでしょうに。」
「だよなぁ…。」
勝とリーゼがいる広場から見えない位置で平馬と涼子の二人が話し合う。
平馬が勝に頼まれた人形の整備ために工房へ向かうのに、持ち切れない道具を涼子が持ってやったのだ。
二人で雑談をしながら工房の手前に差し掛かった時、そこに勝とリーゼがいるのに気がついた。
そしてそのまま聞くとは無しに、二人で彼らの会話に耳を傾けてしまったのだった。
「何あれ。何て顔してリーゼをチラ見してんのよ。…こっちが恥ずかしいわよ。」
「お前こそ何細かいトコ見てんだよ…。」
「それよりさっき、あいつが女の子達に愛想振りまいてんの見た?
ノリさんたちに絞られた後よ。あいつがいない間にサーカスに入った女の子達に紹介されて、まるでギイさんみたいな事言ってんの!」
小さい声で涼子は平馬に苛立ちをぶつける。その剣幕にたじたじとなり平馬は苦笑いを顔に浮かべた。
「まぁそれくらい別にいいだろ…。」
勝が女の子達と喋っているのは見ていたが、子どもの頃より言う事が調子よくなったな…というくらいで涼子ほど気になった訳ではない。そこは同性と異性で感じる事が違うのかもしれない。
「それがなんか妙に板についててヤなカンジだったのよ。そりゃ見た目がギイさんじゃないからあそこまでクサイ事は言ってないけどさ。それが何?どうしてリーゼには肝心な事が言えない訳?」
「…お前に人の事言えんのかよ…。」
自分だって肝心な事が言えないくせに…と思いだし笑いをしながら平馬が小声でぼそりとつぶやく。耳ざとく聞きつけた涼子が振り返った。
「何か言った?」
平馬の呟きに、涼子はちょっと頬を赤くして怒った顔をした。
「いや。でもお前もそんなテンション上げんなよ。あいつ、まだしばらくいるんだしさ。」
「でも…。」
ニヤリと笑ってそう言う平馬に涼子は少し不服そうな声をあげる。
「ま、ちょっと様子見ようぜ。とりあえずあの膠着状態、止めてやるか。…ほれ、荷物持ってくれ、行くぞ。」
二人は道具を持ち直し、勝とリーゼがいる方へ歩き出した。
自分を見つめるリーゼの視線を感じて、勝は溢れそうになる衝動を押さえるのに必死だった。
久しぶりに会った彼女は、記憶の中の姿よりさらに美しくなっていた。
彼女を目の前にして、改めて自分の中の彼女への想いを確認する。
気を抜けば、彼女の腕を取って、彼女の体を胸に抱き寄せ、背中に手を回し、思い切り抱きしめてしまうだろう。
そして自分はそのまま彼女を、壊れるまで抱きしめ続けてしまうのだ。
勝には自信が無かった。
彼女への想いを解放した時、自分が白金にならないという自信が。
彼女への恋に狂って、彼女を籠の鳥にせずに済むいう自信が無かった。
それに心の底に燻るしろがねへの想い。
最近は、会わずにさえいれば、ひと頃ほど彼女への欲望を感じる事も無くなっていた。
ただそれでも、その想いを完全に立ち切れていない自覚はあった。
鳴海としろがねと会う度に、鳴海に感じてしまう嫉妬心。「奪い取ってしまえ」と囁く心の底の声。
今となってはそれが本当の自分の声か、あの男の声かも区別はつかない。もとよりそうやって分けられる物でも無い。
その声を封じるために女を抱いて、体でリーゼを裏切り続けている。
その行為自体が自分を彼女から遠ざけてしまっていると知りながら、どうする事も出来なかった。
そして未だに彼の体の中でアクアウィタエの影響は色濃く「しろがねになる可能性」を秘め続けていたのだ。
どうひいき目に考えても、自分は彼女に相応しい男では無い。
ただ彼女にそう言って、諦める事も出来ない。
せめて「待っててくれ」の一言でも言えたらいいのに。何て憶病者なんだろう、僕は。
自分から顔を反らすリーゼをそっと窺う。今の自分がどんな顔をして彼女を見ているか勝は知っていた。
彼女に恋をしている。恋をする男の顔をしている。
そしてまた、彼の脳裏にあの男の顔が浮かぶ。古いプラハの町でフランシーヌに恋をした男の顔が。
今の自分があの時の白金と同じ顔をしていることを、知っていたのだ。
2008.8.29