〈10話〉

放蕩息子の『一時』帰還

「心当たりって…」
マミの言葉にリーゼを押さえていた勝の動きが一瞬止まった。その隙をついてリーゼが彼の手から紙コップを取り戻す。
「あ、もう飲んじゃだめだよリーゼさん。」
慌ててリーゼを押さえようとする勝にマミが笑顔で声をかける。
「いいじゃない。リーゼさんがまだ飲みたいんだからぁ。」
「ハイ、イインデス!」
リーゼが大きく頷いてにっこり笑った。
「でもこれ以上飲んだら、きっと二日酔いで大変だよ?だから今日はもう止めようよ。」
勝はリーゼに噛んで含めるようにやさしく言う。酔っ払いがこんな言葉を聞く訳が無いのも重々承知だったが。
何くれとリーゼを気づかう勝を見てマミが面白そうな顔をして笑った。
「別に好きにさせてあげればいいじゃない。リーゼさんは君の彼女じゃ無いんだから。」
その言葉に勝がマミの方を振り返る。マミは勝に顔を近づけて彼にだけ聞こえるように小声で囁いた。
「リーゼさんが言ってたよ、君に片思いをしてるって。」
そう言ってニヤニヤと笑う。
「と言う事は、マサル君はリーゼさんを好きじゃないって事だよね。…だったら放っておけばいいじゃない。」
勝は言葉を失いマミの顔を見つめた。二人の会話が聞こえていないリーゼは、勝の制止が止んだのをいい事に、手にしたビールをごくごくと飲んでいる。彼女のコップが空になったのを見てマミがその中にビールを注ぎ足した。
「今日は飲んで嫌な事、全部忘れちゃうんだもんねー。」
そう言って笑うマミにリーゼも笑顔で頷き返す。酔っぱらった彼女はもう人の言う事もあまり分からないようだった。
そのリーゼの手から勝はコップを取り上げた。
「放っておけないよ。リーゼさんは大事な……友達だから。」
そう言ってマミの方を向いて寂しそうに小さく笑う。そしてリーゼに向き直るとやさしく言葉をかけた。
「リーゼさん、ここにいてもいいからもうビールは止めようよ。どうしても飲むなら、せめてもう少し酔いが醒めてからにしよう。その方がお酒もおいしいよ。」
勝はそう言ってリーゼに微笑みかける。
彼の言葉が利いたのか単に飲み過ぎで疲れたのかは分からないが、リーゼは小さく頷いて大人しくなった。
その様子をマミは興味深そうに眺めている。そして面白そうな顔で勝の方を向いた。
「相手が私でもマサル君はそうやってやさしく介抱してくれるのかなぁ?」
彼は顔に浮かんだ困惑をとっさには隠せなかった。マミにからかわれているのは分かっても、リーゼが傍にいると迂闊には軽口が言いにくい。
「そりゃ…。」
何とか言葉を絞り出そうとした時、勝の肩に温かい重みが加わった。
リーゼが彼の肩に寄り掛かってスウスウと寝息をたてている。過度なアルコールが彼女を眠りの国に運んだようだった。
そのあどけない寝顔は子どもの頃の彼女を思い出させる。それを見て勝の口元が綻んだ。
「もちろん相手が誰でも介抱しますよ。マミさんみたいにステキな人なら特にね。でも…。」
「でも?」
マミが勝の言葉の続きを促す。
「リーゼさんは僕の特別なんです。」
勝は自分に寄り掛かって眠るリーゼに目をやった。彼女はかわらず安らかな寝息をたてている。
「子どもの頃、危険な場所で死にそうな目にあっていた僕を、彼女は自分の命も顧みないで助けに来てくれたんです。僕はまだその恩返しも出来てない。出来る事ならリーゼさんが本当に困ってる時に、僕が助けてあげられるといいと思ってます。」
そう言って照れ臭そうに鼻の頭をこする。マミが目を細めて口の端を小さく持ち上げた。
「リーゼさんは別に恩返しなんか望んでないわよ。私だって好きな人を助けるのに見返りなんか求めないし。狡いわよそういうの。」
勝の態度にマミは少し苛ついたようだった。最初よりキツイ口調で言葉を返して来る。
「好きでも嫌いでも、はっきり言ってあげればいいじゃない。君みたいに中途半端なのって一番タチが悪いのよ。」
マミの言葉に勝は困ったような顔を向けた。
「僕は、リーゼさんに相応しい男じゃないから…。」
薄く微笑む勝にマミが噛み付く。
「相応しくないって何よ。」
「言葉通りの意味ですよ。たいした芸も出来ないし、到底リーゼさんには釣り合いません。マミさんだってそう思うでしょ?」
小さく首を傾げ問い掛ける勝に、さらに苛立った表情でマミが言った。
「そりゃウチ一番のスター芸人の彼氏にしては頼りないと思うけど。でも恋愛なんてそんなの関係ないじゃない。」
表情を少し固くした勝がマミを見つめる。真面目な彼の目に彼女は小さく息を呑んだ。
「それは違う。彼女と同じ場所に立てなきゃ…何も始まらないんだ。」
勝はそう呟いて顔を伏せる。そんな彼の様子を見て今度はマミが困惑の表情を浮かべた。
「なんの事よ。…彼女と同じくらいの実力がなきゃ付き合えないって事?そんなバカな話ないわ。」
言いつのるマミの方を向いて、勝はまた困ったような顔で笑った。
アクアウィタエの事、自分の中のフェイスレスの事、しろがねの事。それら全てを乗り越える為に自分は何かを必要としている。それがシルカシェンとしての実力なのかどうか、勝にもはっきりとはしなかった。
その時、二人の間に紙コップを持った太い腕が割り込んだ。
「そんなこたぁいいからマミちゃんも飲めよ。飲み足りないんだろ?」
ノリがニコニコと笑ってマミの手から瓶を取り上げる。そして彼女に手渡したコップにビールを注いだ。
「こいつはまだてんで子供だからよ。頭ん中がサーカスの事でいっぱいで、愛だの恋だの考えてる余裕がないのさ。でも人形繰りの腕はなかなかのもんだぜ。操るだけならしろがねにだって負けねぇからな。」
ノリが勝の頭に手のひらを乗せ、ちょっとくせのある茶色い髪を勢い良くぐりぐりかき回した。思わず勝は首をすくめる。子供扱いされている事には少し引っかかるが、一応助け船を出してくれているらしい。
「でもサーカスで使うにはまだまだだから、修業の旅をしてるって訳だ。」
自分に向いたノリの目がやさしく笑っている。勝はこころの中で彼にそっと感謝をした。

ひとしきり皆で盛り上がった後、ノリが周りの連中に向かって声をかけた。
「さて。ここの酒も尽きたし、俺たちは場所を変えて飲み直すか。」
「あ、僕も…」
立ち上がったノリに向かって勝が顔を上げた。すかさず涼子が口を挟んだ。
「あんたはダメ。」
「そうそう、子どもはこれ以上起きてちゃだめだぞ。」
ノリは勝の方を向いてニヤニヤと笑う。立ち上がったヒロも勝の方に体を向けて同じように笑った。
「未成年をこんな時間に外に連れ出せるかよ。何かあったらコトだからよ。」
「それに、また行っちまうんだったら少しは一緒にいてやれよ。嬉しそうな顔して寝てんじゃねぇか。」
彼らはそう言って、勝に体を預けてすやすやと眠るリーゼに目をやった。その途端、勝の肩にもたれ掛かっていた彼女の頭がすとんと彼の膝の上に落ちる。思い掛けない事に勝の顔が真っ赤に染まった。
茹でタコのような顔色の勝を、小学生の子供相手にするように大人たちがやんやとはやし立てる。
笑い終わった皆が連れ立って食堂を出ようと言う時、一番最後にいたノリが振り返って言った。
「な、傍にいてやれよ。」
にぎやかな喧騒が通り過ぎた広い食堂には、子供たち4人が残された。

さてと、と言って座っていたイスから立ち上がった涼子が勝の方を向いた。
「リーゼを部屋まで連れてってくれない?」
「え?」
「そのまんまにしといたら風邪引くでしょ?………リーゼがつぶれるまで飲むなんて、初めてなんだからね。」
そう言って涼子はじろりと勝を睨みつけた。彼はその視線の痛さにヘビに睨まれたカエルのようになって息を飲む。
「私たちの部屋わかる?」
「え?涼子、一緒に行ってくれないの?」
「だって私、片づけがあるもの。明日学校があるから手伝えないし。今のうちに出来る事はやっとかないとみんなに悪いじゃん。」
涼子は勝に言いたい事だけ言うとくるりと踵を返した。
「平馬は…。」
「オレも残って少しここを片づけるよ。おまえは明日、みんなと一緒に酒瓶を運べよ。」
平馬は立ち上がってぱんぱんと自分のジーンズをはたく仕草をした。
「…部屋の鍵は開いてるから。」
「でも…。」
二人の背中に勝はなおも言い募る。
キッチンの方へ歩き出した涼子が顔だけを彼の方に向けた。
「いいから行きなさい。」
「……………わかった。」
涼子の強い瞳に、勝は小さく頷いた。
リーゼは彼の膝に頭を預けてスウスウと寝息をたてている。
「…リーゼさん、大丈夫?」
試しに勝はリーゼの肩に手を置いて軽く揺すってみた。
彼女は何かを小さく呟くものの、起きる様子はまったくない。
「仕方…ないな。」
勝は彼女の体を押さえながらそっと立ち上がる。そして彼女を抱き上げた。
以前に比べて背は伸びたが、まだ少し、リーゼの身長には足りない。
そんな自分が抱いても彼女は軽く、華奢だった。
思ってもいないほど軽々と持ち上がる体に勝は少し驚きを覚える。
「女の子を抱き上げるのなんて初めてじゃないのにな。」
そう呟いて思い出し笑いをした。
「……しろがねはホント、重かったよ。」


2009.7.4