〈11話〉

放蕩息子の『一時』帰還

涼子と平馬は散らかった食堂を片づけていた。大量に出たゴミを一箇所にまとめ、机の上を拭いて整頓して行く。
二人の手に余るゴミの分別や本格的な掃除は、明日れんげたちがやってくれるだろう。
片づけもそろそろ終わろうと言う頃、涼子がテーブルを拭く手を止めて、空き缶の山を抱えて歩く平馬に声をかけた。
「ねぇ、平馬。マサル、リーゼの事何か言ってた?」
「…ん?」
ちょうど涼子に背を向ける形になっていた平馬が彼女の方を振り返る。
何だ?と言う顔をした平馬に涼子が言葉を続けた。
「人形の整備をしてる時よ。マサル、あんたにリーゼの事を何か言った?」
涼子は小さく眉をひそめ、少し心配そうな顔で平馬を見ている。
「いや…たいした事は言ってないけど。」
そう言って平馬は抱えていた空き缶を、集めていたゴミの塊の近くに置いた。
山と積まれたビールの空き瓶やチューハイの空き缶を見て、平馬は軽くため息をつく。
「毎度の事だけど、みんな飲み過ぎじゃねえの?この後も飲みに行ってるなんて信じらんねぇ…。」
「平馬!話を変えないでよ。」
自分が振った話とは違う事を言う平馬に涼子が怒ったような声を出す。
その様子に平馬が軽く頭を掻いて苦笑いをした。
「本当にたいした事は話してねぇよ。お前らに心配かけてすまないって言ってたぜ。」
「それだけ?」
平馬の言葉に涼子が疑わしげな目で彼を軽く睨んだ。
「あぁ。」
工房でのやり取りで勝の気持ちは平馬に筒抜けだった。しかし勝はリーゼの事を平馬に直接話してはいなかったのだ。
頷く平馬を見て、涼子は少し悲しげな表情で顔を伏せた。
「あいつ、何で急に帰ってきたのかな?」
涼子がぽつんとつぶやいた。そんな涼子に平馬は小さく笑って言葉を返す。
「顔が見たかったんじゃねえの。オレ達やリーゼの。」
「れんげさんと同じ事言うんだね。二人とも何でそんな分かったような事を言うの。」
ちょっと拗ねたようにそう言って、涼子は口を尖らせた。
「分かったような事って…別にオレがそう思っただけだけど…。一体何怒ってんだよ。」
平馬は自分の言葉に機嫌を損ねた涼子の顔を、戸惑ったような表情で覗き込んだ。
怒った表情を押さえ切れない涼子の目にうっすらと涙が浮かんでいる。
「わっ、何泣いてんだよ。何もお前が泣くこたねえだろ!」
「……悔しいのよッ。」
「え…?」
「何であんたばっかり友達面してんのよ。リーゼだってアタシだって、マサルの事を心配してんだからッ。
 平馬があいつの事で何か知ってるなら教えてくれたっていいじゃない!
 それに…リーゼがどんな気持ちでマサルの事を待ってたと思ってんのよ。
 さっきだって…あんなリーゼをマサルの横に座らせて。何も無かったから良かったけど…私がリーゼを心配してるの知ってるのにどうしてあんな事したのよ!」
涼子は目を真っ赤にして平馬に言い募る。勝が帰ってきてからずっと胸にわだかまっていた事が口からあふれて止まらなかった。
「わ、ワリィ…。」
平馬は困ったような顔で涼子の前に立っている。
「でも…オレもあいつらの事、心配してない訳じゃねぇぞ。オレなりに、あの意気地無しの背中を押してやろうと思ってさ。お前に余計な心配させたのは悪かったけど…。」
涼子の顔をまっすぐ見て困った顔のまま平馬はそう言った。
「じゃ、マサルはリーゼの事をあんたに言ったのね。」
「そうじゃない。あいつ、オレにもはっきりとは言わねえんだ。見てりゃ分かるんだけどさ、あいつがリーゼを好きな事は。つまんねぇことばっかり気にしやがって。」
「つまんない事って?」
「お前だってあいつの体の事は聞いてるだろ?」
「しろがねさんの血を飲んだから、いつかしろがねになるかもしれないって事?」
「あぁ。…多分ずっと、その事を気にしてると思うんだ。」
サーカスのほとんどの団員達はこの事を知らない。
共にデウス・エクス・マキナをくぐり抜けた者たちだけが、勝や平馬がしろがねの血を飲んだ事を知っている。
「それだけじゃ無いかもしんねぇけど、まだ何か踏ん切りがつかないだろうさ。」
「…リーゼはそんな事、気にしやしないのに…。」
涼子が小さくつぶやいた。
「オレらが心配しても当人同士の事だし、こればっかりはどうしようもないさ。」
「そんな…。」
平馬は頭の後ろで手を組んで天井を見上げる。涼子は悲しげな顔で平馬を見つめた。
ふいに平馬が涼子の方を向いてニヤリと笑う。
「あいつがここを出てく時に、背中をもう一押ししてやるか。」
「どういう事…?」
「詳しい事は後で説明するよ。協力してくれるだろ?」
ニヤニヤと笑いながら言う平馬に、涼子は釈然としない顔で頷いた。

勝は片手で何とかドアを開けて部屋に入った。
寮の人間はほとんど飲みに行ってしまったので、ドアが開いていてもまったく人の気配がしない。
そのまま部屋の片側に行き、彼はそっとリーゼをベットに横たえた。
それぞれの枕元にフォトフレームが置いてある。それを見ればどちらがリーゼのベッドかは一目瞭然だった。
「ちぇ、平馬の奴いつのまに…。」
それぞれに何枚も家族や仲間で写っている写真があったが、片方には数枚ツーショットの物がまじっている。
四角いフレームの中で涼子と平馬が二人で仲良く笑っていた。
「もう、3年もたつもんな…。僕がここを出てから。何もかも同じって訳にはいかないよなァ。」
勝はベッドで眠るリーゼに視線を落とす。そのままベッドの端に静かに腰を下ろした。
彼女の顔を見つめ、彼女の唇から漏れる規則正しい吐息に耳を澄ます。
いつしかそれは甘美な音楽に変わり彼の鼓膜をくすぐった。
彼女を見つめ続けた彼は自分の思いと心の中の黒い塊を秤に掛ける。
「…ゴメンね。今はまだ…駄目なんだ。でも、待ってて欲しい…。」
そう呟いた時、彼女の唇が小さく動いた。思わず彼は彼女に体を近付けその口元をじっと見つめる。
ワタシ、マッテ…
それ以上は彼女の唇の動きを読み取れなかった。
勝の指先がその唇に触れる。その柔らかさと感触を確かめるように指を横に滑らせる。
彼は少しの間彼女の唇に触れた後、そっと指を離した。
「僕は卑怯者で意気地無しだ。」
顔をあげると、フォトフレームの中で子どもの頃の自分が笑っていた。

勝が部屋を出ると涼子が廊下の壁に背中を預けて立っている。
彼女は小さく眉をしかめて自分の方を見ていた。思わず勝は彼女の視線から顔を反らす。
「いたのかよ。」
勝は顔に仏頂面を貼り付けた。
「ここは私の部屋だもん。」
「帰って来た時に言えばいいじゃないか、僕が出て来るのを待ってないで。」
涼子の視線が勝の顔に突き刺さる。
「そっちこそ言えばいいじゃない、リーゼに。」
「何の事だよ。」
涼子に顔を向けないまま、勝の表情が険しくなる。
「聞かれたくなかったらドアを閉めとけばいいのよ。莫迦ね。」
その言葉に勝が顔をあげ涼子の方を向いた。
「わかったよ、次はドアを閉める。」
勝は涼子の顔を小さく睨む。その表情に押され涼子は少したじろいだ。
「じゃ…おやすみ。」
そう言って踵を返し、涼子の返事を待たずに勝は自分の部屋に戻って行った。
涼子は部屋に入ろうと開いたドアに手をかける。
「莫迦男。」
彼女の口から小さく震えた声でそんな言葉が飛び出した。その呟きは暗い廊下に吸い込まれて行った。


2009.10.14