砂漠に赤い花
「さぁ、今日はここで寝てちょうだい。しばらく使ってなかったから、少し埃っぽいかもしれないけど。」
ケイトが勝をアシスタント用の寝室に誘導する。彼の体を拭き清め、清潔な衣類に着替えさせた。
「本当にすごい傷。きっと何かひどい目にあってきたのね。自分を失ってしまうくらいに…。」
彼女は勝の体の傷を見て眉をしかめる。
彼の体の傷は幼い頃に比べて、少しずつ目立たないようになって来ていた。
それでもまだ彼の体を覆うそれは、初めて目にする者を驚かせるには十分な効果があった。
うつろな目をして立つ勝をベッドに寝かせる。
「良い子で寝てちょうだいね。」
そう言って彼女は、彼の髪をなでながら子守歌を歌った。まるで小さい子供を寝かしつけるかのように。
しばらく歌っていると勝に変化が現れた。うつろだった目に涙が溜まっている。
「まぁ…、泣いてるの?」
ケイトの声に反応し、勝が彼女に顔を向けた。その目にうっすらと光が宿っている。
『おかあさん…。』
勝の口から小さく言葉がもれる。日本語なのでケイトに意味はわからない。
「目が覚めた?坊や。」
それでも彼女は優しく微笑んで勝に声を掛けた。
その顔を見て勝が口元を綻ばす。そして安心したような表情をして目を閉じた。
「早く…治ると良いわね。」
眠ってしまった勝の髪をなでてケイトが小さくつぶやいた。
遠くから聞こえる子守唄。ふと少女の涙が止まる。
その口元にうっすらと微笑みが浮かんだ。彼女の瞳が勝に歌声を聞くように促す。
胸の中に甦る低くやわらかい声。幼い頃、常に自分を守ってくれたやさしい銀色の瞳。
少女の横に銀色の髪で銀色の瞳を持つ女が立っていた。
二人は微笑みを浮かべ勝の心を温かく包み込む。
勝には二人の女の姿が重なって見える。
いつしかその姿が、遠い昔に死んだ母親に変わった。
「おかあさん…。」
心の中で漏らしたつぶやきが、勝の唇からこぼれる。
開いた目の前には見知らぬ異国の女性。
彼女の歌う初めて聞く子守唄が、心の中で銀色の女が歌った唄のようにやさしく彼を包み込む。
その歌声が勝を幼子にかえしていった。
心の中の黒い闇が薄れてゆく。今、フェイスレスの記憶もその唄に包み込まれていった。
その記憶が形を変える。黒い闇が霧となり、勝の心に溶けていった。
「しゃべった?…彼が。」
ケイトから報告を受けたクラークが驚いた顔で言う。
「えぇ。知らない言葉だったので意味は分かりませんが…。
でも、ちょっと笑ってくれて。次に起きたら意識が戻っているかもしれません。」
「そうだといいな。これで先の事に少しは希望が持てるね。」
笑顔で言うケイトに、クラークが微笑んだ。
「明日、もしも彼が動けるようなら少し街に連れて行こうかと思う。
体力が無いから無理は出来ないが、少しでも彼を知っている者がいないか聞いてみようと思ってね。
ケイト君、すまないがその間フィールドワークの準備を進めてくれるかね。」
「かまいませんよ。ふふ。それに博士、準備はいつも私の仕事じゃないですか。」
「そうだったかな?」
ケイトの言葉に、クラークは首を傾げる。
「あの子の事が心配なんですね。…博士のお気の済むようになさって下さい。
場合によっては砂漠に行く日程をずらしてもかまいませんよ?」
小さく微笑んでケイトは言った。
「今回はそれは駄目だよ。あの地域はこの時期にしか観測が出来ないんだ。
長い時間をかけて準備をしてきたんだし、それを無駄にする訳にはいかないからね。」
苦り切った顔でクラークが言った。そして言葉を続ける。
「あの子の事は気にかかるが…身元が分からなければ、ドミニクに預かってもらおうかと思う。
あんなでも一応牧師だ。身よりの無い子供を放り出したりはしないだろう。」
「まぁ、あんなって。ドミニク牧師は多少粗野な所はありますけど、明るいいい人じゃないですか。
仲が良いからって口が過ぎますよ。」
クラークの言葉を聞いて、ケイトはコロコロと笑った。
「調査が順調に進んでも一週間は戻れないからね。あいつなら彼の面倒をちゃんと見てくれるだろう。
明日、教会に寄って話をしておくよ。彼が歩ければ、だけどね。
……マークが事故にあったのが、ちょうどあの子くらいだったよ。
本当に、子供が傷付くのは見たくないな。」
「クラーク博士…。」
遠い所に目をやるクラークをケイトは切なげな表情で見る。
クラークはちょうど十年前、妻と子を自動車事故で亡くしていた。
「本当に早く両親の元に帰してやりたいな。
…ケイト君もすまないね。お嬢さんを置いてこんな研究に付き合わせて。
きっと寂しい思いをしているだろう。」
寂しげな表情をしてクラークは言う。
「砂漠の研究は私のライフワークですから。娘も分かってくれていますわ。
父親はいませんが、今は母が預かってくれていますし…。
口うるさい母親がいなくてきっとせいせいしてますよ。」
クラークを励ますように笑顔を見せ、ケイトは強がるような口調で言った。
まるで自分に言い聞かせるかのように。
2007.10.4