〈14話〉

砂漠に赤い花

男の足が地面を離れ空しく宙を蹴る。
「きさま…あいつに何をした!」
鳴海に胸ぐらを掴まれた男は、その気迫に気圧されながらも精一杯の虚勢を張って彼の目を睨みつけた。
そして嘲るような声で言葉を吐く。
「…軽く楽しませてもらっただけさ。かなり抵抗したから面倒だったけどな。
 でも少々痛めつけたらすぐ大人しくなったぜ。」
この言葉を聞き、男を持ち上げている鳴海の手が震え、力がこもる。
「あんなカワイコちゃんは久しぶりだったからな。皆喜んでたぜ…。」
男は口元に下品な薄ら笑いを浮かべた。
鳴海から殺意にも似た気が発散される。この男と仲間が勝に与えた仕打ちを許す気はなかった。
それを感じ、男は諦めたように体から力を抜いた。
「…なぁ、兄さんよぉ。ここの生活(くらし)知ってっか?夢も希望も金もない…。
 皆その日を生きるのが精一杯だ。…金持ちの外国人の坊やが遊び半分で来る所じゃねぇんだよ…。」
男の声からは怯えが消え、帯びたのは無表情な諦念だけだった。
その表情は、鳴海がこの国で一番多く見かけた物だった。
一部の富裕層以外はほとんどの人間が貧しい暮らしをしている。
中でもこのスラム街の中の人間は、生きる事を諦めた無感動な目をしていた。
「チッ」
鳴海は男を殴りかけた片方の腕を下ろし、胸ぐらを掴んでいた手を放した。
ドサリと鈍い音を立てて物のように男の体が地面に落ちる。鳴海は地面につばを吐いた。
「…お前らそれをどこでやった?」
地面にへたり込む男を睨みつけて鳴海が言う。
「2ブロック先の広場さ。この街をスラムと隔ててるフェンスの前だ。夜は誰も来ないんで具合が良くてよ。」
男はずっと薄ら笑いを浮かべたままだ。
「ドミニク牧師の教会に近い場所ですね。」
衛星上の地図のデータと照合してドロシーが言った。それに頷いて鳴海が男に尋ねた。
「その後マサルをどうした?」
「水と食い物をくれてやったが食わなかったな。明け方…砂漠に近い街の外れで放り出したよ。
 そのまま砂漠の方に向かってフラフラと歩いて行きやがった。…こっちとしては勝手にくたばってくれた方がいいんでな。
 もちろんそのままにしてその場を離れたさ。」
薄ら笑いの男は空ろな目をして言った。
「そうか、分かった。…教えてくれてありがとよ。」
そう言って、鳴海は恫喝するような目で男を睨め付け背を向けた。そしてドロシーと共にその場を歩み去る。
…男達の行為を許す気にはなれなかったが、鳴海は彼らに拳をぶつける事は出来なかった。
彼らのテリトリーに無断で、無防備に入り込んだのは勝なのだ。
我を失っていたとは言え、彼自身の行動が招いた結果だった。それは自らが責任を取らねばならない。
「その後、マサル様はクラーク博士に助けられたようですね。」
鳴海の横を歩くドロシーが言う。
「そうだな。勝の記憶喪失にフェイスレス以外の要因があるとすれば、さっきのやつらの仕打ちだろう。一応現場にも行っておくか…。」
二人はドミニク牧師の教会の方角へ歩き出した。
「マサル様はあの男達に遭遇する前に、自己を失っていたようですね。」
「あぁ…。あいつがマトモなら、あんな男が何人襲いかかったって相手になりゃしねぇ。
 …街中で聞いた話じゃ一様に『イカレテル』って言ってたからな。クラークって人に拾ってもらってなかったらと思うとゾッとするよ。」
ドロシーの言葉に鳴海は暗い表情で答える。
「なぁドロシー、マサルは街中を歩き回った事は覚えてないんだよな。…それって過去の記憶が戻れば一緒に思い出しちまうのか?」
「…確実には分かりませんが、おそらく記憶が戻る時はご自身の体験が全て甦るものと思います。
 本来、記憶力が非常に優れた方ですから。…お気の毒ですが。」
ドロシーの答えに鳴海はため息をつく。
「運がいいんだか悪いんだかさっぱりワカンネェな、あいつは。」
そしてがりがりと頭を掻いてひとりごちる。
子供の頃、勝は自分を暴力で屈服させようとする男達に抗い、自分の力でくぐり抜けてきた。
(何だってまた、そんな目に遭ってんだよ。マサル…。お前は強い筈だろ?)
フェイスレスの記憶で壊れかけた自我にとどめを刺す事にならなければ良いが…。
現場に向かって歩く鳴海の心には、嫌な胸騒ぎが沸き起こっていた。
思いに沈む鳴海の目の前に携帯電話が差し出された。
「ドミニク牧師です。マサル様が倒れられたと。」
ドロシーが鳴海に告げる。
「何?」
二人はそのまま急いで教会に戻った。


勝の心の奥で子守唄の調べが優しく響く。彼は赤ん坊のように体を丸め、母親とおぼしき女性に抱かれていた。
ふと目を開けて女性を見上げると優しく微笑み返してくれる。
勝は再び目を閉じ、心地の良い心の奥の闇の中で深い眠りについていた。


鳴海とドロシーが教会に着くと、勝がベッドに横になっていた。その彼をドミニクとアイシャが心配そうに見守る。
「ドミニク牧師、一体何があったんですか。」
鳴海が声を押し殺しドミニクに聞く。怒りに支配されない為に、彼は意思の力で自分を押さえなければならなかった。
「アイシャの家に行く途中、突然マサルの具合が悪くなったんだ。『もう殺さないで』と口走り出したと思ったら、すぐに気を失った。」
顔色を失ったドミニクが鳴海に答える。彼の耳には勝の「僕のせいで子供が殺された」という言葉がこびりついていた。
「そのあとここに運び込んでベッドに寝かせた。しばらくして一度目を開けたんだが…意識は戻らなかった。」
そう言ってドミニクは深いため息をつく。
「もう少し詳しく話していただけますか?マサル様の状態を分析したいので。」
ドロシーがドミニクに言った。
「あ…あ、もちろん。…ナルミ、彼は気を失う前に自分のせいで多くの子供が殺されたと言っていた。…本当なのか?」
「ドミニク牧師、あんたはヘロデ王が子供を殺したのを救世主のせいだと言うのかい?
 それはマサルの頭をいじくった頭のおかしな男がやったことだ。…あいつには何の責任もねぇよ。」
暗い目をして自分を見るドミニクに鳴海が答える。それは自分にも言い聞かせている事だった。
そして勝にも言ってやらなければいけない事でもある。
「そうか…そうだな。」
ドミニクは少しだけ、口の端を持ち上げた。


2007.12.10