私の小さな妹へ
私が子どもだった頃、村にはこんなうわさがありました。
「村の奥の大屋敷にはお守り様が住んでいる。」
それは当時村の子どもたちの間では有名な話で、才賀家が栄えているのはお守り様のおかげと言われていました。
その話を信じて気味悪がり、ほとんどの子どもたちは屋敷に近付く事はありませんでした。
そしてお屋敷に住んでいた私にも近寄る子どもはいませんでした。
私はただの使用人の娘で村の子どもたちと何も変わる所は無かったのですが。
時々、好奇心にかられた子どもがお守り様について本当かどうか尋ねて来ましたが、私の答えは決まっていました。
「お屋敷にお守り様なんていないよ。少なくとも私は見た事が無いよ。」
小さく笑ってそう答えます。
その答えを聞いても子どもたちはだれも信用しませんでした。
時々勇気ある子どもが現れて屋敷の周辺を探検し、さらに時々、屋敷の窓に銀色をした小さな神様を見かけるのでした。
子どもたちはその情報に飛びつき、私の話を信用しないのです。
大人たちに人望のある旦那様の手前表立っては言いませんでしたが、村の子どもたちはみんな私をウソツキ呼ばわりしました。
でも私は本当に嘘はついていなかったのです。
知っている事を黙っていただけ。
私は、お屋敷に小さな女の子が住んでいるのを知っていました。
そしてその女の子が神様では無い事を知っていました。
その子を守りたかったから、笑顔をずっと見たかったから、私は黙っていたのです。
彼女のためならどんなにウソツキ呼ばわりされても平気でした。
私にとって彼女は大切な妹も同然だったのですから。
その子の名前はエレオノール。
彼女の銀色の髪と瞳はいつもきらきらと輝いていました。
お母さんが外国の人だから髪と目の色が私とは違うのだと教わりました。
そして旦那様が彼女の名前は外国の言葉で「光」と言う意味だと教えてくれました。
軟らかい輝きを放つその髪を撫でる度に、ぴったりの名前だとよく思ったものです。
私たちは彼女を「えっちゃん」と呼んでいました。
彼女の母親は小さい頃に亡くなったそうです。
だから才賀の屋敷で使用人をしていた母がえっちゃんの乳母になりました。
私の家族は旦那様からの信頼が厚かったし、母はえっちゃんが生まれる少し前に私を生んでいて人より母乳の出が良かったのです。
えっちゃんの事は旦那様が信頼する極一部の村人を除いて、他の人たちには秘密にされました。
それは、えっちゃんが不思議な病気を患っていたからです。
私が1歳になるまでは、私たちはまるで双子のようだったそうです。
だけど私が2歳になり、3歳になってもえっちゃんは赤ん坊のままでした。
私への授乳が済むとしばらくして母の母乳も止まったけれど、えっちゃんは旦那様がおそるおそる与えた家畜の乳で満足してくれました。
普通の赤ちゃんには出来ない事でしたが。
えっちゃんは特別なのだと旦那様は言いました。
難しい病気で、普通の人よりずっと丈夫な代わりに、普通の人よりずっと遅く成長するのだそうです。
えっちゃんが母乳の代わりに家畜の乳でも食事が出来ると分かって、私の母は引き続き乳母を続ける事になりました。旦那様も代わりの乳母を連れてこなくて済んでほっとしたようでした。
えっちゃんを世間の好奇の目に晒さないように人知れず育てるためには、秘密を知っている人間は少ない方が良かったのです。
えっちゃんはゆっくりとゆっくりと成長して行きました。
私が10歳になった頃、ようやく2歳児程度に話す事が出来るようになりました。
ずっと赤ん坊のままのえっちゃんは、その頃の私にとって可愛いお人形その物でした。
でもくるくると変わるかわいらしい表情は人形には無い素晴らしいものでした。
彼女のそばではどんな人間も笑顔にならずにはいられなかったのです。
私も母も彼女にありったけの愛情を注ぎました。
すくすくと…と言うには時間がかかったけれど、えっちゃんは身体には何の異常もなく育っていきました。
そしてそのまま数年が過ぎて、えっちゃんは3歳くらいに成長しました。外見年齢に比べれば十分に聞き分けの良い子どもでしたが、3歳程度の子どもにとって変化のない狭い部屋での生活は少なからず悪い影響を与えたようです。
大人しかった彼女はだんだんと気性が荒くなり、意味も無く泣き出すようになりました。私や母がいくらあやしても状況は改善されませんでした。
そんなある日の夜、私は大人たちの目を盗んで彼女を部屋の外に連れ出しました。
きっと狭い部屋に閉じこめているのが良くないのだ…大人たちの言う事情は分かっていましたが、このままではえっちゃんの心がダメになってしまう、そう思って私は大人たちの言いつけに背きました。
いくら秘密にしていると言っても事情を知っている人間しかいない屋敷ですから、厳密な意味で監禁されている訳ではありません。だから私がえっちゃんの手を引いて勝手口から庭に出るくらいなら見つからずに済んだのでした。
初めての外の世界にえっちゃんは目を輝かせていました。ここのところずっと険しかった表情が喜びにあふれています。勝手口前の小さな庭でしたが、緑の芝生と緑の植木があります。そして空からは降り注ぎそうな満点の星がえっちゃんを見下ろしていました。
「おねえちゃん、キラキラ、キラキラ!」
嬉しそうに天に向かって声をあげるえっちゃんを、私はほっとした気分で見つめていました。久しぶりに見るえっちゃんの笑顔がとても愛しくなりました。
それから私は時々、夜にえっちゃんを外に連れ出すようになりました。大人たちにこの事を話されては困るので「これは私とえっちゃんだけの秘密の遊びだよ。大人にバレると二度とお外に行けなくなるよ。」と言い聞かせました。秘密の遊び、と言う事自体が気に入ったらしく、彼女も決してこの事を大人に言いませんでした。
そしてこの、夜の密やかな行事は私がこの屋敷を出る日までずっと続きました。
後で思えばえっちゃんの世話をしていた大人たちも皆、私と同じ事を考えていたのだと思います。少しでもえっちゃんを楽しませてやりたい…苦痛を取り除いてあげたい…その思いで、旦那様に気付かれないように私がえっちゃんを連れ出せるように計らってくれていたのです。可愛らしい彼女は屋敷の人間皆に愛されていたのでした。
その日もいつも通り私は庭に座ってえっちゃんと星空を眺めていました。
えっちゃんは昼間遊び疲れたせいか、私にもたれ掛かってうとうとと居眠りを始めていました。
「えっちゃん、おねむだったらお布団に行こうか?」
そう声をかけてもえっちゃんは目を覚ます様子が無く、私は彼女を連れて行くために身体をそっと抱き上げました。
するとその時突然、彼女が両目をパチリと開けて私の顔をまじまじと見つめてきました。まるで見た事の無い何かを見るような顔で私の顔を凝視していました。
「ど、どうしたの?えっちゃん。そんなびっくりした顔をして。」
不自然な表情の彼女に私は思わずそう声をかけました。
「…えっちゃん…。」
その問い掛けにえっちゃんはただ自分の名前を繰り返します。いつもと様子の違う彼女に不安になり、私は普段は使わない彼女の名前で呼びかけました。
「えっちゃん、エレオノールちゃん…どうしたの、どこか痛いの?」
エレオノール、と聞いてえっちゃんの表情がさらに驚いた表情に変わりました。
「エレオノール…この身体はあの小さなエレオノールの物なのですか?」
えっちゃんが大人びた表情でしっかりした内容の言葉を、舌足らずな声音で話し出しました。そして彼女は自分の手や身体に一通り目をやってから両手で自分の頬を押さえました。
「子どもの身体…私は…私は…エレオノールの中に入ってしまった…。」
こう言ってえっちゃんは手で顔を覆って泣き出してしまいました。
私には彼女の様子すべてが驚きだったけれど、悲しそうに泣くえっちゃんを一生懸命頭をなでて慰めました。
「えっちゃん泣かないで。えっちゃんがそんなに泣くと私まで悲しくなっちゃうよ。」
この言葉にえっちゃんは涙に濡れた顔を上げ私の方を向きました。
「あなたは…誰?」
申し訳なさそうな表情で彼女が言います。私はえっちゃんのその言葉にショックを受けていました。
「おねえちゃんだよ。えっちゃん、私がわからないの…?!」
自分でも知らないうちに頬を涙が伝います。
「ごめんなさい、ごめんなさい…。信じられないと思うけれど私はエレオノールでは無いのです。」
えっちゃんは悲しそうな顔で言いました。
私は彼女が私の事を忘れてしまったショックで、逆に3歳の女の子がとても流暢に言葉を話している不自然さを受け入れていました。
「あなたはエレオノールを育てている人ですか?」
「育てている人って…どうしてそんな変な事を言うの。えっちゃんと私はずっと一緒に大きくなってきたじゃない。お母さんと私といつも一緒のお部屋にいるじゃない。ずぅーっとずぅーっと!」
私はショックのあまりえっちゃんの質問にも答えられずに泣きじゃくりました。
「本当にごめんなさい…。でもあなたがエレオノールの事を大切に思っているのなら手を貸してほしい。」
とても真剣な顔をしたえっちゃんはおずおずと、泣いている私の頬に手を当ててこう言いました。
「私は今すぐにでもエレオノールの体から出て行きたい。エレオノールの幸せを壊したく無いのです。」
その必死な声音と表情に私の涙はぴたっと止まりました。
その時えっちゃんが言っている事をすぐには飲み込めなかったけれど、何か大事な事を私に伝えたいのだと言うことだけは理解したのです。
「分かった。えっちゃんが変になっちゃって吃驚したけど、えっちゃんが元に戻るなら何でもする。」
私がそう言って頷くとえっちゃんもニコッと笑って頷き返しました。
「ありがとう。まずは私の話を聞いて下さい。」
私はえっちゃんに促されて彼女を地面に下ろしました。えっちゃんは立っている私の横に腰を下ろします。私は彼女の隣に座り直して彼女の話が聞きやすいように耳を傾けました。そしてえっちゃんは私の方を向くと、普通ならとても信じられないような話を語りだしたのです。
でもその時、幸いな事に私はまだ子どもでした。
この不思議な話や状況を受け入れられる程度には十分子どもだったのです。