月の明かりに
「夜の学校ってやっぱこう…薄気味悪いなぁ。」
勝は一人、とぼとぼと暗い廊下を歩いていた。
古めかしい木造の廊下は、彼が足を進める度にギシギシと小さく軋んだ音を立てる。
今回仲町サーカスが招かれた公演先は、とある村の秋祭り。
ここは自然の豊かな片田舎とは言え交通の便が良く、都会からのIターン組も多く人口も多い。
住人たちに活気がある所為か彼らが主催となって行うイベントにも力が入っていた。
年々催し物が豪華になり、恒例となった秋祭りには周辺の市町村からも観客が大勢やって来るのだった。
さて今年はどうしよう…という時に、担当者の口から
「あの騒動の後、人気が出て来たサーカスを呼んでは」という声が上がった。
そこで、今年の秋祭りの目玉として仲町サーカスに公演依頼がされた…という訳なのだった。
この村では古い小学校を改築し、主に地域の公民館として利用していた。
その広い校庭に公演用のテントを立て、団員の宿舎としてその小学校が貸し出された。
もともと宿泊が可能なように教室の一部を改装してあったので宿舎としても快適だった。
公演日は二日間。
今日はその一日目の夜で、団員は最終日に備えほとんどが就寝していた。
勝も皆とともに一度は床についていたが、自然の欲求の為に部屋を出て廊下を歩いていた。
「宿泊先が小学校なのは面白くていいんだけど、部屋からトイレが遠いんだもんなぁ。」
用を済ませ宿泊している教室に戻る途中、音楽室の前を通りかかった。
彼の耳にかすかな足音が届き、音楽室の方を向くと中から人の気配がする。
気になって覗き込むと、開け放たれた窓から大きな月が見えた。
月光に照らされて、華奢な人影が両手を広げゆったりと踊っている。
狭い場所なのでたいして動いている訳では無かったが、
勝にはそれがかなり経験を積んだ者しか踊れないステップである事が分かった。
中の人物を脅かさないようにとそっと足を踏み入れる。
そして彼女が翼のように広げた腕を畳んだ時、小さく拍手を送った。
「すごいね、リーゼさん。そんなにダンスが上手いなんて知らなかったよ。」
「マサル…ちゃん。」
勝の拍手に気づいて振り返った人物は、彼を見て少し驚いた顔をした。
「ご、ごめん。一人で踊ってる所、のぞくつもりじゃ無かったんだけど。」
リーゼの途方にくれた顔を見て、慌てて勝は言葉を取り繕う。
「いいの。でも誰にも言わないで。…多分もう踊らないから。」
そう言ってリーゼは微笑を顔に貼り付ける。その取ってつけたような表情に勝は違和感を覚えた。
「踊らないって…すごく上手いし素敵だったよ?」
「ありがとう。でもいいの。マサル…サンと私だけの秘密にして。きっと今日しか踊れないから。」
リーゼの言葉に勝は訝しげに眉をしかめる。
あのステップは一日やそこらで身に付くものでは無い、そして幸せそうな表情で舞う姿を見ていた勝は、今日しか踊れないと言う彼女に驚いた顔をした。
「どうして?そんな上手なのにもったいないよ。好きなら我慢する事無いのに。」
勝の言葉にリーゼは困ったように眉をしかめる。
「だめなの。明日にはきっと踊った事も忘れちゃうから。」
「どういう事?忘れちゃうって。」
悲しげに言うリーゼの言葉を問いただす。
「…アタシ、リーゼロッテじゃ無いの。」
そう言ってリーゼは寂しそうに微笑んだ。
「何言ってるの、リーゼさん…。」
リーゼの言葉に勝はくりっと大きく目を見開く。
「やっぱりわからないかな?マサルちゃんの前で踊った事無かったもんねえ。」
勝の前に立つ少女はスカートの裾を持ち、芝居がかった仕草でおじぎをした。
いつものリーゼならそんな事はしない。
そして自分の事を「マサルちゃん」と呼ぶ存在に、彼は一人しか心当たりが無かった。
「まさか…君、コロンビーヌなの?」
「お久しぶりね、マサルちゃん。」
そう言ってリーゼの顔をしたコロンビーヌはにっこりと微笑んだ。
「コロンビーヌ、お前リーゼさんの体を奪ったのか!」
驚いた勝はとっさに彼女の手首をつかんで鋭く叫んだ。そして厳しい目つきで彼女を睨みつける。
「まさかアクアウィタエが残ってた…?」
彼は白金がアクアウィタエで白家の子供の体を奪い取った事を思い出した。
「やぁねぇ、そんなヒドイ事しないわよぉ。そんな事したらマサルちゃんに嫌われちゃうの分かってるもん。」
彼女は勝に掴まれた手首に目をやり痛そうに眉をしかめる。
その表情を見てこの体がリーゼの物である事に思い至り、勝は彼女の手首を握る手の力を弱めた。
華奢な白い手首に赤く痕が残る。
「この子のマサルちゃんを想う気持に呼ばれてここに来たの。…アタシももう一回、マサルちゃんに会いたかったから。」
勝の方に嬉しそうな笑顔を向ける彼女を見て、勝は掴んでいた手首を離した。
「どうやってリーゼさんの中に入ったの?…出て行けるの?」
呆然とした表情で勝が彼女に問う。
「どうやって…は良く分からないけど、多分、月が沈んだら出てくと思うわ。」
彼女は勝の問いにそう答えた。少し顔を伏せてそのまま言葉を続ける。
「この子は月を見ながらずっとマサルちゃんの事を考えていたのよ。月は彼岸の入口の一つだから…きっとアタシと気持がシンクロしちゃったのね。入口が無くなったらアタシは此岸にいられないから、この子は大丈夫よ。」
「…ごめんよ。また君を疑って。」
少し伏せていた顔を上げ、彼女は勝の方に微笑みを向ける。その優しい表情を見た勝は、今度は彼が軽く顔を伏せて彼女に詫びた。
「仕方ないよ。アタシ達は敵同士だったんだもん。それにこんな普通じゃ無い事を信じろっていっても無理だよねぇ。」
勝は彼女の顔をまともに見る事が出来ない。
「僕は命の恩人の君を最後まで信じられなかった…。」
「気にする事ないよ、マサルちゃんはアタシの願いを叶えてくれたんだし。それにそれまでにアタシはたくさん人間を殺してきたんだから。…マサルちゃんがアタシを信じられなかったのは当然よ。」
そう言って彼女は寂しそうに笑った。
大きな窓から注ぎ込む淡い月明かりに照らされながら、二人はしばらく立ち尽くしていた。
目の前に立つ黒髪の少女の中に人形の魂が宿っている…勝はその事を頭では理解してもどこか心がついて行かなかった。
戸惑った顔の勝に、彼女は瞳にイタズラっぽい表情をのぞかせる。
「やっぱりマサルちゃん、信じてないんでしょう?アタシがコロンビーヌだって。」
面白がっているような顔をして自分に近付いて来る彼女の仕草に、勝はいくつか見た事のある表情を認めた。
「普通の人じゃ信じられないような経験はたくさんしてるから、免疫はある方だと思うけど…。こういうのは初めてで。君がコロンビーヌだって気はするけど…人形でも幽霊になるの?リーゼさんに取り憑いたって事?」
「そうなんじゃない?でもこの子を取り殺したりしないから安心してよ。…アタシ達はこちら側の命に何も出来ないから。」
彼女は勝の問いにクスクス笑ってそう答えた。
「でも、映画とかではさ…。」
「そんなの作り話よ。マサルちゃんは本当に幽霊に取り殺された人を見た事ないでしょ?」
「だけど。」
なおも言い募る勝に彼女がちょっと不機嫌な顔になる。勝の方に顔を寄せ、人さし指を立てて左右に振った。
「アタシ達はこっちの人が呼ばないと来れないの。そういう話しは都合よく解釈されてるだけ。死んだ人に罪悪感のある人が相手を呼んで、姿を見て勝手に死んじゃう事はあるかもしれないけど。」
「…そう言うのって取り殺されたって言わないの?」
おそるおそる勝が彼女に口を出す。
「どうして?アタシ達の方は相手を殺そうとは思ってないわよ。それに殺した相手を忘れちゃうような奴の所には行けないし。人は自分たちの中の恐怖で死ぬの。…人の生き死にはこの世の物。あの世は関係ないわ。」
「…わかったよコロンビーヌ。君はちっとも怖くないし。幽霊って想像してたのと全然違うんだね。」
説明の最後に口を曲げて少し怒った表情をする彼女に勝は吹き出した。
そして彼は目の前のこの世の物ならぬ存在を受け入れたのだった。
彼らはピアノの前に置かれた二人掛けの椅子に並んで腰掛けた。
彼女の白く細い指が鍵盤の蓋を開け、整然と並んだ白と黒の鍵盤の一つにそっと指を置く。
高いソの音が狭い教室の中に細く響いた。
「今でもエレオノールを愛してるの?」
勝をからかうような目で見つめて、彼女がそんな言葉を口にする。
自分を見つめる彼女を見つめ返し、勝が仏頂面で言葉を返した。
「君がそんな事を聞くの?焚きつけたのはそっちの方なのに。君やフェイスレスに言われなきゃ、気がつかないで済んだかもしれないのにさ、こんな気持ちに。」
勝は彼女の方から顔を背け唇を噛んだ。
「あれから何年も経っているんでしょ?…エレオノールとナルミが結ばれてから。」
「コロンビーヌ、その事を知ってるの?」
「リーゼロッテの体に入ったから、この子が知ってる事はだいたい分かるわ。」
そう言って彼女は小さく微笑む。
「マサルちゃんがこの子の気持に気づいてて黙ってる事も、その理由も。…この子の心にある事はほとんど分かる。」
「僕…そんなに分かりやすいのかな。」
勝は顔を伏せて彼女に顔を向けない。
「そうじゃないわ。この子がマサルちゃんを想ってるからそれに気が付いたのよ。マサルちゃんがみんなに気を配っているように、この子はマサルちゃんに気を配っているから。」
「リーゼさんが…。」
そう言って勝が顔をあげて彼女の方を見た。
「こんなにマサルちゃんの事を好きな可愛い子が近くにいるのに。」
そう言って彼女はクスリと笑う。それを見て勝が顔を赤らめて小さくため息をついた。
「…正直、リーゼさんの気持が嬉しくない訳じゃ無いけど…。それがしろがねを想う気持ちより強いのかどうかは良く分かんないよ。」
「アタシ、マサルちゃんに謝らないといけないかなぁ。」
ポツンと彼女がつぶやいた。
「え?」
「マサルちゃんがエレオノールを愛してるって言った事。あの時アタシはエレオノールもマサルちゃんを愛してると思ってたけど、違ってたんだね。」
言葉を終えて彼女は困ったような笑顔を浮かべる。それを見て勝がふっと小さく笑った。
「うん、違ってたね。コロンビーヌがしろがねを見てそう思ったのなら…彼女が僕の中に鳴海兄ちゃんを見てたからだ。」
勝が彼女の方を向いてにっこり笑う。
「でも、やつあたりしてゴメン。君に言われなくてもきっと自分で気がついたよ、しろがねが好きだったって事。今だってあの二人を見るとちょっと胸が痛いんだ。いくら僕でもどうして胸が痛いのかくらい分かる。」
二人は窓の外に浮かぶ月をそっと見上げた。