虹
このサーカスに入ってあっという間に二ヶ月が過ぎようとしていた。
あと一週間で雇用の契約が切れる。見るべき物も多くて、出来る事ならあと一ヶ月は残りたかったけれど。
残念ながら手元にはまたフウからの指令が届いていた。
一週間後、僕はこの国を出て中国へ向かう。
「まァ…ちゃんと契約した間はいられるんだし。機会があれば、また見に来れるさ。
…この前の所はバツが悪くて、もう顔出せないもんなぁ…。」
そんな独り言を言いながら、いつもの場所で僕はタバコをふかしていた。
僕の傍らにはオリンピアの入ったスーツケース。
この場所でタバコを燻らすようになってから、何故だかいつも、彼女をここに連れてきていた。
火をつける前には蓋をあけ、必ず彼女の顔を眺める。
旅に出てずっと、こんな女々しい行為をした事なんてなかったのに。
砂漠で我を失った後でも、スーツケースを開けるのは必要のある時だけだったのに。
僕はふと顔をあげる。そろそろあの人がやってくる頃。
「やっぱり今日もいた。」
宿舎の方からターニャさんが歩いてきた。
無言で僕はタバコを差し出す。
「ありがと。いつもゴメンね。」
ぺろっと舌を出して笑い、彼女はタバコを受け取った。
そんな彼女を見て僕は、もう一週間しかここにいられない事が、自分にとって正解なんだと突然悟った。
ここを去りがたいのは彼女のせい。
僕は彼女に魅かれている。オリンピアをここに連れてきてたのはどこか…後ろめたかったからなんだ。
最低だ、僕は。
アイツだって、好きな女はずっと一人だけだったのに。
「ねぇマサル。君いつもこんな遅くまで起きてていつ寝てるの?
仕事もまじめにこなしてるのに…体がもたないんじゃない?」
彼女は少し心配そうな顔をして僕を見ている。
改めて見て、今日初めてターニャさんの瞳が黒でなく、濃いグリーンだって事に気付いた。とっても深い海の色。
「ターニャさんこそ、二日と空けず今ぐらいにここに来てるじゃない。寝てないのは一緒でしょ。」
僕は彼女の瞳から目が離せない。
………マズイ。僕は思わず傍らに置いてあるオリンピアのスーツケースに手をかけた。
「私は君ほど肉体労働してる訳じゃないし。
…夢見が悪いのよ。だから少しでも起きていたくて。」
そう言って彼女は寂しそうに笑う。
………ヤメテ。僕の前でそんな顔をしないで。ケースにかけた手に力がこもる。
「僕もそうだよ。だからあんまり眠りたくないんだ。
でも、こう見えて体力はある方だから。少しくらい寝てなくても全然平気さ。」
自分自身の動揺を隠したくて、ことさら明るい声で僕は言った。………でもバレてるかもしれない。
「そうなの。でも体力があると思って無理すると、後でしっぺ返しを喰らうわよ。」
ターニャさんはそう言って無邪気な顔でクスクスと笑った。その顔を見て何となく僕はほっとする。
ケースにかけていた手の力がゆるんだ。
ふとターニャさんの距離が近くなる。
「一緒なら眠れるかもね。」
「…!!」
その言葉と共に、ターニャさんの両腕が僕の体に巻き付いた。突然の事に僕は言葉を失う。
彼女に抱きしめられて僕の体は硬直する。
「マサルも…亡くした人の夢を見るんでしょう?
あなたがどんな辛い目にあったかは分からないけど。
私の国では…戦争があったの。父さんも母さんも、私の目の前で死んでいった。
他にもたくさんの人たちが殺されていったわ。」
「右腕はその時に?」
僕の口から思わず言葉が漏れる。
「えぇ。兵士に撃たれたわ。私も殺される所だった。
でも銀髪の外国人の兵士に助けられて何とか生き延びる事が出来たの。」
(しろがねは人間の争いには介入しないもんだと思ったけど。)
彼女の言葉を聞きながら、僕はそんなマヌケな事を考えていた。
「その後は色んな所を渡り歩いて、結局この国に亡命したの。色々と嫌な思いをしたわ。
忘れたふりをしても夢は中々許してくれないわよね。
ここのサーカスに拾ってもらうまで、私、すごく荒んでたの。
マサルを見てると昔の自分を思い出しちゃって。…変よね、君はすごくちゃんとしてるのに。」
「きっとターニャさんほどひどい目にはあってないよ…。」
そう、僕自身は。
アイツの手にかかっても死なずに済んだ人たちの中に、この人のように強く生き延びる事が出来た人はいたのだろうか?
「そぉ?じゃそんな目をしないで。あなたの目は死人を見てる。こっちを向きなさい。
私たちは、…マサルは今、生きてるんだから。」
アイツの記憶をのぞき込む時、きっと僕の目は死んでるんだ。
一日中どんな時だってアイツは僕の中にいる。ターニャさんにはきっとアイツが見えたんだ。
「ほら、私を見て。あなたは生きてるのよ。」
耳元で声がして、僕は我に返って彼女の顔を見る。強ばっていた体の力が抜けていた。
気がつくと僕たちは唇を重ねていた。彼女の柔らかい舌が僕の口腔内を丹念に這い回る。
その感触に僕の脳はピリピリと痺れ、思考回路が働かなくなった。
「こういう事、した事ないの?」
「う…ん。」
一瞬、アイツの記憶が甦りかける。
でも首筋にあたる彼女の唇の感覚の方が鮮明で、その後はアイツの記憶が甦る事は無かった。
かわりに心に浮かぶ、銀の瞳と黒の瞳。
二人の顔が心の底に張り付いているのに、僕は彼女の腕を振りほどく事が出来なかった。
今、目の前で僕を見つめる潤んだダークグリーンの瞳。
「少しだけ、嫌な事を忘れさせてあげる。…本当に少しだけだけど…。」
僕は彼女の海に溺れた。
僕たちは大きな舞台装置の間で毛布にくるまっていた。
ここはターニャさんのねぐら。
もちろん宿舎にスペースはあるけど、彼女は道具に囲まれて眠るのが一番落ち着くのだと言った。
ただ、この国では冬にこんな所で一夜を明かすなんて不可能だけど。今は短い夏の終わる頃だった。
僕は彼女との行為の後、彼女の身体の上に身を投げ出した。
初めての経験に身も心も精も根も使い果たして…
気がつくと、僕は僕の中の他の誰かの事をすべて忘れていた。
「ちょ…っ、マサル。苦しいってば。」
「ごめ…でも動けない…。」
ターニャさんは僕の下から自力で這い出す。そうして僕の方を向いて上気した顔で微笑んだ。
「ねぇマサル。あなた来月のバイト、契約更新してないんだって?」
突然小さな声で彼女が言った。その顔に表情は無い。
「なんで知ってるの?」
「経理のアンナとは仲良いもの。」
そっぽを向いて彼女は言う。
別に黙ってるつもりじゃ無かったけど…言いそびれてしまっていた。
「うん…。早く言わなきゃって思ってたんだけど。例の害虫駆除の仕事が入ったんだ。
来週は中国に行く。」
僕も小さい声でそう言った。
「…そっか、困ったな。また当分タバコが吸えなくなっちゃうじゃない。」
そう言って笑うターニャさんの顔を見て、不覚にも僕は泣きそうになった。
「男がなんて顔してるのよ。今生の別れじゃあるまいし。私はずっとこのサーカスにいるんだから。
いつだって…また、会えるでしょ?」
二つしか違わないのに彼女は僕なんかより、やっぱりずっと大人だった。
彼女は僕がここに戻らない事を分かっていたのに、そう言って僕を慰めてくれた。
「結局、いつもより眠る時間が少なくなっちゃったね。
ゴメン…明日、もう今日ね。マサル、出番があるんでしょ?
あのマリオネットすごいのね。リハーサルを見せてもらってたの。
きっとあれならお客さん、喜ぶわ。」
「そうかな…。うん、ありがとう。」
ターニャさんに褒められたのがくすぐったくて僕は笑った。
「少しだけど眠りましょ。全然寝てないよりきっとマシだわ。」
大道具の隙間で、朝まで僕たちは一つの毛布にくるまって眠った。その夜、僕は何の夢も見なかった。
冷たい風の吹き出した道端で、僕は空港に向かうバスを待っていた。
僕がこの国にいたたった二ヶ月で春と夏は終わってしまったのだ。
大きなスーツケースに体を預けて、僕はタバコに火をつける。
「もう一箱くらいあげちゃえば良かったかなァ。」
僕は最後まで見送ってくれたターニャさんのキレイな顔を思い出した。
「良かったわね。オリンピアの番組、評判も上々で。みんなもずっと居ればレギュラーになれるのにって言ってたわよ。」
ターニャさんや他の仲良くなった人たちが出口まで見送りに来てくれていた。
僕は手を振ってみんなに別れの挨拶をする。
サーカスを一歩出た僕の所に、ターニャさんがやって来て耳元で囁いた。
「初めてを取っちゃってゴメンね。」
彼女は楽しげな顔をして笑っている。
「そんな…今さら。」どうしろと?
「マサル、いい人がいるんでしょ?寝言で名前、呼んでたわよ。」
「え…、本当?」
耳の先まで赤くなるのが自分でも分かった。それを見てターニャさんはキシシと笑う。
「バーカ。う・そ・よ。」
「…ターニャさん、ひどいよ。そんな事言うならタバコ、返してもらうから。」
「ゴメンゴメン。…でもたくさん持ってるのに一箱しかくれないなんてケチねー。」
本気とも冗談ともつかない口調で彼女は言う。
「僕が言うのも何だけど、ターニャさんには似合わない気がしてさ。…吸わないで済むなら、その方がいいよ。」
そう言う僕に微笑んで、彼女は額にそっとキスしてくれた。
「ありがとマサル。元気でね。オリンピアの彼女と仲良くね。」
ターニャさんはそう言ってサーカスの仲間の元へ帰っていった。
「ターニャさん…?」
彼女は何もかも全部、お見通しだったんだ。
乗り込んだバスの窓から遠くに見えたテントが消えようとする頃、最初の日に見たような虹がまた空に現れた。
「さっき雨がぱらついたから…。」
僕のつぶやきをその場に残し、空港に向けてバスは進む。
虹が消える前に僕は前を向いた。
「虹を見ると思い出しちゃうかもな。」
そうつぶやいて僕は、目を閉じて少し眠った。
2007.10.4
R-18バージョンからサクッと濡れ場を消しました(〃▽〃)。
でも印象があんまり変わんない気がするのが情け無いやら、悔しいやら。
そんな訳で勝の初体験が書きたかった訳ですよ。
最初っからプロなのも可愛そうじゃない?…ほら、初めてって夢見てるでしょ、男の子は(笑)
いやー昔、ドリームな初体験を語ってくれた男子がいて。
「それホントに実体験?」ってツッコミたくなった事を思い出しながら書いてました。
そんな訳でこんな感じにしてみました!どんな訳だよ…。