虹
砂漠の国で僕の中に溶け込んだアイツの記憶は、あれから頻繁に甦るようになった。
意識があれば、僕はアイツの記憶を物語のように、まるで映画を観るかのように受け入れる事が出来る。
時にはアイツに憐憫の情を感じる事さえあるほどだ。
だけど…眠りの中だけは。
僕が自由にならない夢の中で、僕はアイツの人生を生き直す。
擦り切れた筈のアイツのレコード盤。
でもその感情はまだ鮮明に僕の中で再生を繰り返す。
目覚めると僕はいつも同じ言葉を繰り返す。
「僕はマサルだ。」
夜毎うなされて眠りが浅い。
ゆっくり眠る事の出来る日は、いつかやって来るのだろうか。
「キレイだなァ。」
雨上がりの道を一人、僕はオリンピアの収まったスーツケースを転がしながら歩いていた。
冬になると人を寄せ付けない氷に覆われるこの国も、今はとてもさわやかな季節。
政治的には色々と難しいけれど、サーカスを愛する人間にとっては特別な国だ。
期待に胸を膨らませて歩く僕の目の前に大きな虹が架かっていた。
片方の端が遠くにうっすらと見えるテントに吸い込まれて行く。
「幸先がいいかも。」
つぶやいて僕はスーツケースを引く手を止めた。
そしてポケットからタバコを取り出し、一本くわえて火をつける。
「…しろがねが見たら怒るだろうなァ。」
良くない事だとはもちろん思っている。
子供の頃から「良い子」だった僕のこんな姿を見たら、日本のみんなはなんて言うだろう。
「こんなの吸ったって、アクアウィタエが減る訳でもアイツの夢を見なくなる訳でもないんだけど。」
ただ、ゆれるタバコの煙をみてると気分が落ち着くから。
そんな理由で吸い出したのは最近の事。
我ながら日に日に本数が増えて行ってるのが気になるところだけど、今は止められそうにない。
吸い終わって携帯灰皿に吸い殻を入れる。
「マナーだからね。」
未成年で吸っといて何言ってるんだか。
心の中で自分に突っ込んで、僕はまだ遠いテントに向かって再び歩き始めた。
大きいサーカスはいつだって人手が足りない。
僕はとりあえず一ヶ月の契約でバイトをする事になった。
雑役だけど手が空いてる時は近くで色んな芸が見られる。
この前の砂漠の一件では、約束の日程までに戻れず契約していたサーカスに迷惑をかけた。
それからはなるべく短期の契約をするようにしている。
新しいサーカスに入った時の常で、僕はキョロキョロと周囲を見回しながら歩いていた。
どんっ…。
「何処見て歩いてんのよッ。」
よそ見をしていた僕は、だれかの背中に思いきりぶつかったらしい。
「ご・ごめんなさいッ。」
ふりかえって僕を睨みつける顔に僕は慌てて謝った。
…初日は浮かれてよくこんな失敗をしてしまう。
「あれ?君、初めて見る顔ね。」
恥ずかしくて顔を真っ赤にして謝る僕に、ぶつかった相手はつりあげていた眉を下げて言った。
顔をあげた僕の目に映ったのは、亜麻色の髪で透けるような白い肌をした二十代半ばに見える女の人だった。
彼女はとてもキレイで、僕はここに着く前に見た虹を思い出した。
「はい。僕、さっきバイトに入ったばかりなんで…。」
「それで右も左も分からずキョロキョロしてたって訳ね。
私はターニャ。舞台美術担当よ。…私もまだ駆け出しだけどね。君、名前は?」
彼女は笑顔で僕に手を差し出した。
「マサル…、マサル・サイガです。」
僕は名前を言って彼女と握手した。その手も顔と同じにとっても白かった。
「マサル、か。君、この国の人じゃないわよね。どこから来たの?」
「日本です。日本でもサーカス団にいたんですけど。今は修業のつもりで世界を回っていて。」
そう答えた僕の顔を、彼女は目を真ん丸にしてのぞき込む。
「…修業って、もしかしてこっちに家があるとかじゃなくて、一人で世界を回ってるの?
…そんな小さいのに。」
今度は眉間にしわを寄せて、ちょっと心配そうな表情でそう言った。
慣れてるけどね…。チビで童顔の僕は、アメリカやヨーロッパを回ってると必ず年より若く見られる。
二つ三つならいい方で、下手すると四、五歳は若く見られる。…もう十七歳になるんだけど。
毎度の事とはいえ、彼女みたいにキレイなお姉さんに子供に見られて、実際面白くは無かった。
それが表情に出てたらしい。
「ごめん、気に障った?ここにバイトに入ったんだもんね。子供扱いはないか。」
「あ、いえ別に平気です。」
困った様な笑みを浮かべる彼女に、僕も何とか笑顔で答える。
来た早々、ここの団員の機嫌を損ねる訳にもいかない。
「本当に気にしないで下さい。それより…あの、教えてもらってもいいですか?
ユーリさんって方の所に行って、仕事の指示をもらうように言われたんですけど。」
「あぁ、ユーリさんのところ?私が連れてってあげるわ。
君が他の人にぶつからないですむようにね。」
そう言ってターニャさんは笑った。
目的のテントの前でちょっと手をあげて、彼女は自分の持ち場に戻って行った。
見るとはなしに僕の目に入った、あげられた白い右腕の生々しい銃創。
それは彼女のキレイな顔よりも、僕の心に鮮明に焼き付いた。
「なぁに、マサル。その体。」
「へ?」
サーカスの宣伝のための着ぐるみと格闘していた僕の後ろから、聞き覚えのある声がする。
僕がこのサーカスでバイトを始めてから二週間が経っていた。
「傷よ。キ・ズ。」
声の主はターニャさんだった。
このサーカスは大きくてバイトや下働きの人だけでも大勢の人間が働いていたから、
小さいサーカスにいる時みたいに全ての人と親しくする、という訳にはいかなかった。
それでも少しは仲良く話せる人も出来ていて、中でもターニャさんは最初に声をかけたよしみで、
色々と面倒をみてくれる。
「あ…傷の事か。昔、事故にあってさ。」
「ふぅん…、普通の事故で付く傷じゃなさそうだけど?」
何だか怒った口調でターニャさんは言った。
「うーん…。
子供の頃、遺産相続の争いってのに巻き込まれてさ。
怖いオジサンたちに捕まった事があって。
死にそうな目に遭ったけど、助けてくれた人もいて。
何とか今も生きてるって感じ?」
「…そんなヨタ話、信じると思ってるの?」
ヤバい。ターニャさん、本当に怒った顔してる。
困ったな、茶化して話すんじゃなかった。
「信じなくてもいいけど…本当だよ?
僕はまァ、ウソつきな方だけど、言うことが全部ウソな訳じゃないし。」
彼女を怒らせたくは無かったけど、他に言うことも思いつかなくて、僕は少し投げやりに言葉を吐いた。
「平和な国の出なのに、意外と苦労してるんだ。」
何に納得したのか、ターニャさんは表情を和らげた。
「日本はホント、平和だからね。」
なんとか首までぬいぐるみを着た僕は、ターニャさんの右腕の方に目をやる。
今日の彼女は袖の長いシャツを着ていてあの銃創は見えない。
普段はあまり分からないけど、注意して見ていると彼女の右腕が少し不自由なのが分かった。
「ターニャさんって…出身はどこの地方なの?」
少し気になって僕は彼女に聞いてみた。
「ナイショ。」
そう言って彼女は着ぐるみのファスナーを上げてくれる。
その顔は少し寂しげで、僕の想像が当たっている事が分かった。
…多分、ターニャという名も本当の名前では無いのだろう。
「ゴメン…なさい。」
「気にしなくていいのよ。」
どんな顔をしていいかわからない僕に、笑顔でターニャさんは答えてくれた。
「おい、マサル!いつまでかかってるんだ!!」
「す、すいません、今行きます!」
呼ばれて、ぬいぐるみの頭をかかえて僕は走り出した。
軽く振り返ると、ターニャさんが手を振っているのが見えた。
初めて勝の一人称で書いてみた。それもこれもヤツの初体験のため(笑)。
…しかし話の前振りがナガイ。肝心な部分は〈後〉だけですよ?
毎度、国についてはあくまでイメージです。適当なので季節とか突っ込まないように!
タイトルはELLEGARDENの『虹』から。
そう、過去に縛られる事は無いのだ。