〈後編〉

お家へ帰ろう

タランダ、今までお父さんの残してくれた物を見せてあげなくてごめんなさい。
私、あの人が死んでしまった事をどうしても受け入れられなくて、あの人を思い出させるものを全部隠してしまったの。
あの人がこの世に存在した証を見るのが辛かった。
あなたとヘレンがお父さんを恋しがっているのは分かっていたけれど、私はあなた達の姿を見るのも苦しかった。
あの人譲りの黒い髪と黒い瞳を持つあなたたち。
あなたたちはどうしても私にあの人を思い出させたから。
私は母親失格ね。
あれからあなたとヘレンの関係が変わってしまったのは気づいていたのに、自分のことに精一杯で手を差しのべる事が出来なかった。
まさかヘレンまであんな目に遭うなんて…。
あの子にちゃんと教えてやればよかった。あの人がお前達の事をずっと思っていた事を。
そうすればきっと、お前たちも元の仲の良い姉妹に戻れたのに。
大きな絵は手放してしまったけれど、お父さんが私達を書き留めた素描集だけは残しておいたの。
それを見れば分かるわ。あの人がどんなにお前たちを愛していたか。
こうしてあなたと離れて暮らして…初めて私はタランダと向き合っているような気がしています。
電話越しに聞くあなたの声が、知らない間にどんどん大人びて行くのに驚いています。
優しくしっかりとした女性になって、会うたびにいつも私を慈しんでいてくれる気持が伝わってきたわ。
あなたの存在が私に勇気をくれました。お父さんの絵を自分の目で見る事が出来たのです。
ありがとう、タランダ。
あなたの選んだ道が幸多い事を祈っています。


手紙を一読したリーゼが顔をあげる。その頬が涙で濡れていた。
勝は彼女の表情を見て、その涙が喜びによって流された物である事が分かった。
だから彼女の隣で黙ってそっと立っていた。
そこにギャラリーのオーナーが、一冊のスケッチブックを持って近づいてきた。
「こちらを…タランダさん、あなたがお持ちになって下さい。お母様からそのように言付かっています。
 本当に、あなたのお父様が夭折された事は、私たち芸術に関わる者としてはとても残念です。晩年の作品にも非常に力がある。
 証拠に今回こちらで展示した作品も、私が手元に置いておくつもりの作品以外は全部売れてしまったのですよ。
 私は病院でのお父様の最後も自殺でなく…何か事故だったか、本当に容態が急変したのでは無いかと思っています。
 これは橘朔也の絵を扱っている画商のギュンターとも言っていたのですがね。
 死の床で描かれた素描にも、とても生命力があふれているのです。
 あなた方姉妹のタブローを描くつもりだったのでしょう。とても子細なスケッチがされているのですよ。
 死ぬつもりの人間がこんな物を遺しはしません。」
リーゼはオーナーからスケッチブックを受け取る。男はギャラリーの隅のテーブルセットの方に手のひらを向けた。
「あちらに腰掛けてご覧になってはいかがです?私はお茶でも用意しましょう。」
「そんな…お気遣い無く。」
男の言葉にリーゼが恐縮して首を竦める。
「大事なお客様にはリラックスして絵を見ていただきたいのでね。…君はタランダさんのお友だちかい?」
男の視線がリーゼの隣に立っていた勝の方を向く。
「はい。一緒のサーカスにいるんです。」
ギャラリーの雰囲気に慣れなくて、しゃちほこ張って答える勝に男が微笑んだ。
「じゃあタランダさんの家族なんだね。彼女をテーブルまでエスコートしてくれるかい?これは男の役目だからね。」
楽しげな男の口調に勝の緊張も解け、彼はリーゼの手を引いて言った。
「せっかくだからお言葉に甘えようよ。僕もお父さんのスケッチ、見せて欲しいし。」
笑顔を浮かべる勝に、リーゼも小さく笑って頷いた。

机に置いたスケッチブックを勝がリーゼの隣から覗き込む。
「わ、これ小さい頃のリーゼさんとヘレンさん?すごいなぁ。かわいいなぁ。
 ……油絵ではよく分かんなかったけど、リーゼさんのお父さんって本当に絵が上手なんだね。
 あ、僕、なんか失礼な事言ってる??」
彼はうかつに喋った自分の言葉に慌てて、目を白黒させている。
スケッチブックにはリーゼの家族の日常が、達者な筆致で描かれていた。
リーゼの母親や愛らしい双子の姉妹、そのどれもが愛情を持った柔らかく力強い線で描かれている。
「お父さんの油絵は、現実の形にとらわれていませんから。
 画家にも色々タイプがあるみたいですけど、お父さんは対象物をちゃんと描写してから自分の形を作る描き方をしていました。」
話ながらリーゼはスケッチブックの頁をめくる。
「…思いだしました。お父さんはお休みの日、私達が家にいるといつも私達をスケッチしていたんです。
 ニコニコと嬉しそうに笑って。時々私達に鉛筆を貸してくれました。」
スケッチブックをめくる手が止まる。彼女の目が頁の端で留まっていた。
リーゼの見つめる先には子供の手による絵が描かれていた。ニコニコと笑う父親と双子の娘。
「…これ、姉さんが描いたお父さんと私たち…。」
その絵の傍には日本語で『笑う門には福来る』と書かれていた。
「勝さん、私、日本語を読めるようになっていて良かったです。」
顔を上げたリーゼが、隣に座る勝の方を向いて笑う。目には涙が溜まっていたけれど、それがこぼれ落ちる事はもう無かった。


ギャラリーを出て地下鉄と電車を乗り継ぎ、二人は仲町サーカスに一番近い駅まで戻ってきた。
並んで歩いていた勝は、ふとリーゼの方を向いて話しだす。
「実はちょっと…リーゼさんが羨ましいな。僕、本当のお父さんの事を何も知らないから。」
「マサルさん…。」
そう言って寂しそうに微笑む勝を見て、リーゼは少し心配そうな声を出した。
「でもね、お母さんが僕の事をとても大事にしてくれたから。その事はちゃんと覚えてるから…いいんだ。」
そう言って勝は少し含羞んだように笑った。
「それに今はリーゼさんや仲町サーカスのみんなが僕の大切な家族だし。ね、リーゼさん。家に帰ろう。」
勝はリーゼを安心させたくて、彼女の手を取ってにっこりと笑う。
「ハイ。」
リーゼも小さく微笑んで、自分の手のひらに置かれた勝の手をキュッと握った。
そのまま二人は手を繋いで仲町サーカスまでの道のりを歩く。
春先の暖かな空気に包まれた歩道を、沈みかけた太陽が照らしていた。
「日が長くなったねぇ。」
赤い大きな楕円に目をやり勝が言う。その言葉にリーゼが柔らかい笑顔を浮かべ返事をした。
「そうですね。…マサルさん、今日は一緒にいてくれて本当にありがとう。
 勝さんがいてくれなかったら、ギャラリーに行く勇気が出ませんでした。」
「そんな…大袈裟な。でもこんな事でリーゼさんの役に立ったなら僕も嬉しいよ。」
リーゼの言葉に勝は少しくすぐったい気持になる。リーゼが勝を見つめて話し出す。
「お父さんがどんな絵を描いていたのか…私はすっかり忘れていたんです。
 お父さんが最後何を思っていたのか知るのが怖かった。私たち姉妹のことをどう思っていたのか。
 お父さんが優しかった事を覚えているのに、心に浮かぶのは病院のベッドに横たわる頬のこけた痩せたお父さんの顔だけ。
 苦しそうな顔で私たちを見つめるお父さん。」
二人は踏み切りに差し掛かった。
列車が近づいてカンカンと警告音が鳴り、二人の前に遮断機が下りた。
手を繋いだまま二人は立ち止まり、走る列車をやり過ごす。
「でも今は、笑顔のお父さんを思い出せるんです。最後に会った時だって、笑顔を見せてくれてたんです。
 私が思いだせなかっただけで。…ありがとう、勝さん。私に勇気をくれて。手を…繋いでくれて。」
そう言って本当に嬉しそうにリーゼが笑った。

その幸せそうな笑顔を見た瞬間、勝はリーゼの手を振りほどきたい衝動に駆られた。
彼女の手を握っている事がすごく恥ずかしくて照れ臭い。自分の頬が少し赤くなっているのが分かる。
でもそんな事をしたら彼女が傷付いてしまうと思い、勝は懸命にその衝動を押さえた。
なんとなくは知っていたリーゼの気持ちを、彼は今日初めて実感した。
嬉しいような恥ずかしいような、そんな感情が胸の中に溢れる。
でも自分が彼女に対して持っている思いは、その気持ちに応えられる物では無かった。
「どうしたんですか?」
リーゼの言葉に頬を赤くして少しそっぽを向いた勝に、彼女は不安そうな顔を向ける。
「何でも無いよ。リーゼさんが嬉しいなら良かった。…さ、みんなが待ってるから早く帰ろう。」
照れたような顔でリーゼの方を振り返り、勝は彼女の手を強く握ったまま、遮断機の上がった踏み切りに1歩足を踏み出した。
二人が渡り終えた踏み切りは、またカンカンと音が鳴り遮断機が下りた。
次の列車が行き過ぎて遮断機が上がる頃、二人は仲町サーカスへの道の最後の角を曲がった。


2008.4.14

考えてた小ネタが繋がってきた(頭の中で)。タイトルは山崎まさよしの「お家へ帰ろう」より。
ほ、本当は冬に書くつもりだったの(汗)。でも来年の冬まで待てないし!
すんません!リーゼさんのバックボーンを丸々捏造しちゃいました。ドイツ行ってる日本人の職業って、建築家か画家しか思いつかなくてこんな事に(汗)
気付いてないだけで、リーゼさんの生い立ちって作中で紹介されてるのかな。だとしたら根底から覆されるけど(苦笑)
某所でリーゼさんの過去話を読んでとても面白かったんですが、同じには出来ないし自分の分かる世界の話にもってきちゃった(笑)。
その方のSSはリーゼがドラムを連れて日本に来る事が出来た理由をひどく上手に説明されててとても感心しました。 私の話じゃグレートロングサーカスの給料がものすごく良かったから、としか言えない…。