お家へ帰ろう
中学校の帰り道、途中で勝は同じく下校途中のリーゼに呼び止められた。
しかし彼女の通う高校は勝達の中学校とは反対側にあり、普通ならここで会うことは無い。
勝を捕まえるためにわざわざここに来たようだ。
「あれ、リーゼさん。どうしたの?」
「マサルさんにお願いがあるんデス…。」
勝と一緒にいた平馬と涼子は少し先を歩いていた。平馬は勝の方を振り返る。
「俺ら先に戻ってるからよ。マサル、リーゼの話を聞いてやれよ。」
「え?」
少し戸惑った表情を浮かべる勝に、平馬はつかつかと近づき小さな声で囁いた。
「だーかーら、リーゼの話を聞いてやれって言ってんだよ。…こんな所まで来てわざわざお前を待ってたんだぞ。」
「別に話を聞く気がない訳じゃないんだけど…。」
そう言って勝はチラッとリーゼを振り返る。彼女は少し不安そうな顔で勝を見つめていた。
「…ん。じゃ、これ持ってってよ。」
ニコッと笑って勝は平馬に体育用の着替えの入った袋を差し出す。
「…仕方ねぇなぁ。分かったよ。」
しぶしぶ平馬はその袋を受け取った。そして先を歩いている涼子の方に駆け寄る。
それを見送った勝はリーゼの方に体を向けた。
「リーゼさん、お願いって何?」
「橘朔也回顧展…。」
勝はリーゼが差し出したポストカードサイズのDMのタイトルを読み上げた。
「銀座の小さなギャラリーなんですけど。一緒に行ってくれませんカ?」
寂しげな顔でリーゼは勝を見つめている。
「僕なんかでよければ構わないけど。…あんまり絵とか分かんないんだけどいい?」
DMをリーゼに返し、そう言って勝は小さく首を傾げる。
彼は特に絵に興味がある訳でも無く、美術館も小学校の課外授業で訪れた事があるだけだった。
そんな自分が銀座のキャラリーなんて場違いだと思ったけれど、リーゼの表情を見ていたら行かないとは言えなかった。
「付いてきてくれるだけでいいんデス。…一人で行く勇気が無くテ。」
そう言ってリーゼは小さく微笑む。
「タチバナって…もしかして。」
「はい。私のお父さんデス。」
リーゼの父親は日本で美大を出てからドイツで絵の勉強をしていたと言う。
ある時彼は画題にサーカスを選び、スケッチや取材の為にリーゼの母親のいるサーカス団を訪れた。
舞台美術にも興味のあった彼はそのサーカス団の舞台装置のスタッフとも親しくなり、いつしか頻繁に出入りするようになった。
その彼とリーゼの母親が恋に落ちるのに、それからさほど時間は必要なかったらしい。
そもそも黒髪の日本人の画家は、麗しいサーカスの猛獣使いに恋をしていたのだ。
「お父さんとお母さんが結婚して、私と姉が産まれて…私たち家族は幸せな暮らしをしていましタ。お父さんはまだ駆け出しでしたが、懇意にしてくれる画商さんや画廊のオーナーもいましたし、お母さんの猛獣使いのショーはサーカスで一番人気がありましたカラ。」
ギャラリーまでの道すがら、リーゼは勝に自分の家族の事を話す。
彼女の父親が亡くなっている事は今までにも簡単に聞いた事はあったけれど、それ以上の話を聞くのは初めてだった。
勝は話をするリーゼの横顔をじっと見つめる。
その寂しげな表情は、彼が初めて会った時のリーゼを思い出させた。
…姉の仇であるビーストに自分の身を差し出そうとした彼女。
「…でもそれもお父さんが病気に罹ってから、何もかもが変わってしまいました。」
その言葉を咽から絞り出したリーゼの表情が小さく歪む。
心に甦る記憶は様々な思いを彼女の中に呼び起こさせたらしい。
「お父さんの病気の治療は難しくて…莫大な費用が必要だったんデス。
お母さんと私たちはお父さんの病気の治療費のためにアメリカに渡りました。
そしてグレートロングサーカスに入団し、リーゼロッテ・シスターズとしてデビューしたのです。
以前から誘われてはいたのですが、母はドイツを離れたく無かったのでずっと断っていました。」
そこで彼女は勝の方を向いて寂しげな顔のまま小さく笑う。
「幸いな事に、私たち姉妹のショーはアメリカのお客様に受け入れてもらいました。
それでお父さんの治療費については心配が無くなったのですが、病気は父の心を蝕んでいたのです。」
リーゼの父親はドイツの病院で自ら命を絶ったと言う事だった。
実際に難しい病気で、そのまま治療を続けても治る見込みはほとんどなかったらしい。
「今ならお父さんが病気で辛かった事も分かるのだけど…。
その頃の私には、お父さんが自ら死を選んだ事が本当にショックで。優しいお父さんが大好きだったので尚更でした。
私と姉は、お父さんが自分たちを置いていってしまったんだと思って…いつしかお父さんを恨むようになってしまっていたのです。」
そう言ってリーゼは目を伏せる。
「もともと私は姉に依存しやすい性格だったけれど、その事があって、よりひどくなっていきました。
姉も私に支配的に振る舞う事で…寂しいのを忘れようとしたのかもしれません。」
「リーゼさん…。」
勝にはそれ以上の言葉を掛けようが無い。リーゼは自分を見つめる勝に顔を向けた。
「ごめんなさい、マサルさん。こんな話に付き合わせちゃって。つまらないですヨネ。」
「そんな事ないよ。リーゼさんの大事なお父さんの話だもの。」
申し訳なさそうな顔をするリーゼに、勝はにっこりと微笑んでみせる。
辛い内容だけれど、リーゼがこの話をする相手に自分を選んでくれた事がなんとなく嬉しかった。
「………お父さんが死んで、お母さんはいままで家に置いてあった絵を全部売ってしまいました。
まだ駆け出しの画家で、売ってもお金になる訳じゃなかったけど、手元に置いておくのが辛かったみたいです。
おつき合いのあった画商さんがいい人で、お父さんの絵を大事にしてくれる事が分かっていたし。」
そこでリーゼは勝の方を向き小さく微笑んだ。そしてまた遠くを見るような顔で前を向き、歩きながら話を続ける。
「でもお母さんは、素描の描かれたスケッチブックを手元に残したんです。
画商さんはそれも是非譲って欲しいって言ったらしいんですけど。
いいお話を断ってまで手元に置いたのに、お母さんはそのスケッチブックをずっとしまい込んでいて…私は見た事が無いんです。
この展覧会はその画商さんが企画してくれたの。
ドイツで地道にお父さんの絵を紹介してくれて、それなりに買い手がついて。その中に日本でギャラリーを経営している人がいたんです。
絵を気に入ってくれた二人は、お父さんの生まれ故郷の日本で回顧展をやろうって…。
そのスケッチブックも展示しているんです。
お母さんから今回の展覧会の事を聞いた時、どうしても一人で見る勇気が出なくて。だから勝さんについて来てもらったんです…。」
そこまで話した時、二人の歩く先に目的のギャラリーの小さなプレートが見えた。
プレートを目にした途端、リーゼの足が止まる。
「リーゼさん?」
リーゼが足を止めた事で、一人少し先に歩を進めた形になった勝が不思議そうに振り返った。
彼の目に映る彼女の表情は悲しげで青ざめている。スクールバッグを持つ手が小さく震えていた。
「大丈夫?リーゼさん。ギャラリーに入る前にどっかでお茶でも飲む?」
勝が気を使ってリーゼの元に戻り声を掛ける。
「心配させてごめんなさい。大丈夫デス、勝さんに一緒に来てもらったから。…ちゃんとお父さんの絵を見に行きます。」
小さく擦れた声でリーゼが言う。勝は震える彼女の手の上に自分の手を重ねた。
「じゃ、リーゼさん、一緒にギャラリーに入ろう。僕が手を繋いでいてあげるから。」
そう言ってにっこりと笑う。リーゼの手の震えが収まった。
「ハイ。」
二人はギャラリーの扉をくぐった。
二人の目の前に蒼い大きな長方形が立ち塞がった。思わず勝の口から小さく感嘆の声が上がる。
「すごく大きい…。これ、サーカスのテントだね…。」
ギャラリーの入口に大きなタブローが掛けられていた。
蒼く地色が塗られた画面の中に、様々な色で抽象的に描かれた線が踊る。
一つ一つの線は無機的で意味を持たないのに、画面全体で軽やかに丸盆(リング)を描き出し、背後に大きなテントが浮かび上がっていた。
「僕、絵の事はぜんぜん分からないけど。リーゼさんのお父さん、サーカスがとっても好きだったんだね。」
大きく目を見開いてタブローを見つめるリーゼにそっと勝が囁いた。
彼女は言葉も無く小さく頷く。蒼い大きなタブローの横にも様々な大きさのキャンバスが並んでいた。
その、あまり大きいとは言えないギャラリーのスペースを、サーカスを描いたキャンバスが埋めている。
その中の小さなタブローの前で勝の足が止まった。
「色使いはどこか物悲しいけど、この絵の…女の人、なのかなぁ…とってもキレイだ。」
勝の横に立ったリーゼが嬉しそうな顔で微笑む。
「その絵のモデルはお母さんです…。」
「好きじゃないときっと、こんな風に描けないと思う。お父さんは本当にお母さんの事が大好きだったんだね。」
そんな勝の言葉にリーゼはそっと頷いた。
「タランダ・リーゼロッテ・橘さんですか?」
小さな肖像画の前で佇む二人の横に、一人の男が並び立ち、リーゼに声を掛けた。
「…はい、そうですが。」
リーゼの答えに男は軽く微笑み小さな封筒を差し出した。
「お母様によく似てらっしゃいますね。お手紙を預かっていますよ。」
男はこのギャラリーのオーナーだった。今回の回顧展の為にドイツに行き、件の画商の元を訪れていた。
その時リーゼの母親とも顔を合わせていたのだった。
「ありがとうございます…。」
戸惑った顔をしてリーゼは男から封筒を受け取る。そして開封し、手紙を読んだ。