2話

ふたりがいた風景

「ご苦労さん。」
そんな声とともにミネラルウォーターのペットボトルが投げ渡される。
日の暮れかけた薄闇の中で空中に弧を描くそれを、ごつく大きな手のひらが受け止めた。
その手に収まると500ミリリットルの水が詰まったペットボトルがやけに小さく見える。
「あ、スンマセン。」
テントの裏で道具方に頼まれた仕事をこなしていた鳴海が、様子を見に来たノリに軽く頭を下げた。
「いつも悪いな、目一杯力仕事を頼んじまってよ。」
「いいっすよ。こういう事ならまだオレでも役に立ちますから。こっちこそ、いつも覚えの悪いオレの稽古に付き合ってもらって申し訳ないです。」
ノリの言葉に鳴海が頭を掻きつつ苦笑いで答えた。
記憶を失っていた当時の態度から、ヒロ、ノリ、ナオタと鳴海が打ち解けるのはひどく大変で骨の折れる事だった。
それでも三人がしろがねの記憶の中の鳴海を見ていた事と、本当に鳴海の性根が真っ直ぐである事を三人が理解するにつれ、少しづつ彼らの間のわだかまりは解けていった。そして今、鳴海は三人からサーカス芸の基本をたたき込まれている。
結局、鳴海が白銀の人形繰りの記憶を得る事は無く、サーカス芸も自分で身に付けなければならなかったのだ。
エレオノールと二人でサーカスをして世界を回る為に鳴海は練習にあけくれた。三人のかなり厳しい愛の鞭にもかかわらず、彼の努力はあまり実を結んでいないようだったが。

「あんだけ練習をやれば、もうちょっと出来てもいいんだけどな。お前って普通より体力も集中力もあるんだし。」
鳴海の苦笑いにノリも同じく苦笑いを返す。
手にしたミネラルウォーターを一息で飲み干すと、鳴海は深くため息をついた。
「はぁ…。いつまでたっても上達しなくて情け無いスよ。真面目にやってはいるンですけどね。」
肩を落とす巨漢の背中をバシッと音がするほどの勢いでノリがぶっ叩いた。
「しけた面はお前にゃ似合わないぜ。大丈夫だよ、時間がかかってもお前ならいいクラウンになれる。幸い時間はたっぷりあるしな。」
そう言ってノリは鳴海にニヤリと笑いかける。
「あんな辛気臭い場所でゾナハ病棟の子ども達を笑顔に出来たお前だからな。向いてるよ、クラウンに。こういうのは練習した事が組み合わさるのにタイミングもいるんだよ。そんだけ拳法を修得してるお前には釈迦に説法かもしんねぇけどな。」
「…向いてますかね、オレ。」
ノリは自分の頭一つ分高い所から少し戸惑ったような表情を見せる男を見上げた。そして彼に向かって片目を瞑って親指を立てる。
「心配すんな、オレが保証してやる。お前はクラウンに向いてるよ。」
その言葉に鳴海は本当に嬉しそうな顔で笑った。

「そろそろ飯の時間だけど片づくか?一応手伝うつもりで来たんだけどよ。」
ノリが鳴海の回りをキョロキョロと見回した。道具はまだ多少散らかっているものの、仕事の方はすでに仕上がって整頓も済んでいるようだった。
「ほとんど終わってますよ。そこの道具を片したら戻るつもりだったんで。…って、ノリさん、いいすよ。オレやりますって!」
手伝うと言った端からノリは道具を拾い上げあたりを片づけ始めていた。
「一緒にやればすぐ終わるだろ。飯の方も早く行かねぇと片づかねぇしよ。」
鼻歌まじりで片づけをするノリの横で、鳴海も楽しげな顔で掃除を始める。
「何か、こういうのいいすね。」
「は?何言ってんだお前。」
誰に聞かせるでも無く小さく呟かれた鳴海の言葉に、ノリが眉間にしわを寄せた。
「いや、その何つーか、こうやってノリさんと話が出来る日が来るなんて前は思っても無かったんで。」
鳴海は慌てて照れたような顔をして言い訳をする。その様子を見たノリが仕事の手を休めてフッと笑った。
「まぁ確かになぁ。でもお前も悪いんだぜ。…そんな顔して笑えるんなら、あんな仏頂面してんじゃねえよ。」
「ス、スンマセン。」
ノリの言葉に鳴海は困ったように頭をかく。
「まぁ…お前も大変だっただろうけどな。でもあの頃のお前は無愛想でまったくもって憎たらしかったもんなー。」
そう言ってノリは立ち上がって星の瞬きだした空を見上げた。
「でもそれが笑い話になって本当に良かったよ。」
鳴海も仕事の手を休め彼の横に立った。
「今だから言うけど…列車から放り出されて助けられた後、勝がシャトルに乗ったって聞いてさ。お前をぶっ殺してやろうと思った。」
静かに話すノリの横顔を鳴海はじっと見つめる。
「でもすぐ法安さんや平馬から説明されたよ。勝がお前に黙ってシャトルに乗り込んだって。
 お前こそ、自分をぶっ殺したい気分だったんだろうな。助けた筈の子どもが自分を庇って死地に向かっちまって。
 勝が帰ってこなかったら…お前は…。」
ノリが鳴海に顔を向ける。
僅かな間真面目な顔で鳴海を見つめた後、ふっと片頬を歪めた。
「まぁ…でももう、そんな事、いいよな。勝も無事に戻ったんだし。
 あの頃はあいつもまだまだ子どもだったからな。残されたお前らの気持ちなんて、考える余裕も無かっただろうしなぁ。」
「ノリさん…。」
二人が肩を並べて再び夜空を見上げた時、彼らの後ろからけたたましい子供の声がした。
「あぁ〜まだ片づけ終わってないじゃん!兄ちゃん、ノリさん、何してんだよぉ。」
その声に二人が振り返ると勝が頬を膨らませて立っていた。
「二人が食事してくれないと食堂が片づかないんだからね!早く来てよ、もぉ〜。」
「わりぃマサル、すぐ済ませて行くからよ。」
まくし立てる勝に鳴海が片手を上げて謝る。
「じゃ、二人の分用意しとくからすぐ来てよ。」
勝はそう言い捨てて、元来た方へ駆けて行った。
その後ろ姿を見てノリがぼやく。
「まったく、子供にゃかなわねえや。」
「本当っす。」
二人は顔を見合わせてげらげらと笑いあう。
そして子供たちを待たせないようにと手早く残りの片づけを終え、二人して食堂に向かったのだった。

2008.9.17

鳴海としろがねのいる仲町サーカス。今回は鳴海とノリのお話ですた。
実はちささん、ノリさんが結構好きである。
※日記で自分の書いた物を振り返るのが面倒になってきたのでこっちに移しました。2009.1.22